案外今の時代に相応しい

チア・シード

ペトロ一3:13-17   


善いことについては妥協しない。神の前に善いことというのは、考えの上では、絶対的に正しいのです。義のためというのは、ここでは善いことをする、正しさという人間の領域で捉えていたいと思います。正しいことをすると、苦しみを伴うことがあります。それはいつの世でもそうでしょう。害を加える者がいないというなんて、あり得るでしょうか。
 
恐れるな、心配するな。キリストを信じ、主として見上げていよ。良心からの弁明を以て応えよ。こうした勧めは、今の私たちにもおよそそのまま当てはまると考えられます。私たちはキリスト者は、これを見て見ぬ振りをしているが故に、骨抜きの、形だけのクリスチャン、日曜クリスチャンになってはいないだろうか、と点検したいところです。
 
あくまでも、正しく善いことへと向かえ。むしろ悪口を叩く者は恥じ入るであろう。こちらが悪を以て返してはならない。忍耐が必要である。どこまでも一本道の善の光を貫こうとする言葉が続きます。それは、当時のキリスト者が不純だったという面があるかもしれませんが、むしろ当時の世相が、それをさせない力を持っていたからだと想像します。
 
さて、私たちは、奇妙なことにこう前提します。キリスト者というものは、世間で好意的に見られ尊敬すらされているものだ、と。敬虔なクリスチャンという決まり文句は人口に膾炙し、それをクリスチャン当人が真に受けています。自分は敬虔だなんて言えません、などと言って笑わせるのも、残念ながらその言葉に酔っているひとつの証拠です。
 
仏教や神道については、日本人一般の3人に2人は信頼感をもっているのに対して、キリスト教については、3人に2人が、信用できないという意見をもっている。そういう統計を最近見ました。尊敬され、信用されているなどと、能天気に構えている場合ではない。それはあまりにおめでたい限りです。
 
聖書が書かれた頃は、世間全体を敵に回していたような時代でした。その状況に身を重ねるくらいの思いで聖書を読むのが、ちょうどよいのではないでしょうか。そうしないと、書かれてある言葉の必死の覚悟が、読み取れるはずがないと思うのです。世界中から憎まれて、軽蔑されて危険の中にあった人たちが書き、それを読んだのですから。
 
ことさらに何もしないで善人だと思われているのが常識だ、などと考えるのではなく、心してかかりましょう。反感を覚えられている前提をまず用意しましょう。その中で、善いことに励め、とここにメッセージが届いています。その気持ちで命懸けの言葉を読むというのが、現代に相応しい聖書の読み方ではないか、と提言します。


Takapan
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