罪を十字架の上に運び上げた方

チア・シード

ペトロ一2:18-25   


「自由人として行動しなさい」、但し「神の僕として行動しなさい」(2:16)との忠告から、召使たちへと視点を移します。直訳では「ひねくれた」主人に対しても、「心から畏れ敬って」従うように、と言っています。自由人と奴隷という立場がある社会常識の中での発言です。キリスト教は奴隷制を容認している、との非難はそう気にする必要はありません。
 
現代人が、新たな奴隷制の中にあるという本質について欺瞞があるように思います。同じ知恵が、私たちの生活にも当てはまることは確実です。「不当な苦しみ」に遭ってもなお、神を思えば耐えられるでしょう。自らの罪の故に痛い目に遭ったところで、それは当然のことだと言え、取り立ててそれについてどうだ、と述べることはできません。
 
苦しみが善の故であるからこそ、神は救うでしょう。それは、キリストに倣うことでもあります。ですから、キリストを見よ、と私たちは指し示されます。その苦しみは、キリストに基づくものではなく、私たちの故でありました。しかし、それでもなお耐えて歩んだキリストに、私たちも続くように、従うように、と「模範を残」したのです。
 
「この方は罪を犯さず/その口には偽りがなかった」というフレーズは、何か引用のようにも見えますが、旧約聖書からの引用とは言えないようです。むしろ教会の信仰の言葉だったのではないでしょうか。さらに「罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず」というキリストの姿を私たちに見せ、神に従うということについて教えています。
 
それが、主に委ねるということであり、主こそ正しく裁く方である、という信頼を示すものでした。キリストは、「私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました」というのも、信仰告白なのでしょう。が、直訳だという、「私たちの罪を、木の上に、その身をもって運び上げてくださいました」という表現が、私はとてもよいと思います。
 
それは大変具体的で、リアリティがあるように感じられるのです。私たちは「罪に死に、義に生きる」ようになりました。主の僕の「打ち傷によって」、私たちは癒やされたのです。迷える羊たる私たちは、この「魂の牧者」の許へ立ち帰りました。神の僕として行動する自由人の姿がそこにあります。私たちは自由でしょうか。罪を離れているでしょうか。


Takapan
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