キリストの受難の姿

チア・シード

ペトロ一2:18-25   


俺たちはこの形を自分のしたことの報いとして受けて当然だ。だが、この方は違う。ルカが、イエスの隣で同じ刑に処せられている一人の口を通して、人の普遍のあり方を示しています。この死刑囚だけではないはずです。この手紙に、不当な苦しみが挙げられており、奴隷の立場のために説いていますが、これも人に普遍的に適用できるものと理解しましょう。自分のせいだとは言い難い苦しみは、確かにあるものです。
 
この不当な苦しみは、奴隷という社会的な制度の故の苦しみでしょうか、それともキリスト者であることに関わる苦しみでしょうか。前者だとしても、ローマ帝国の圧制的な支配下でおとなしく従って生活しなければならないという事情にあって、誰もが社会的に苦しんでいると言えそうです。
 
どうしてそれを不当と思うのでしょう。自分だけが何故、としばしば人は問います。ほかのあの人でなく、どうして私が、と。しかし、たとえすべての人が苦しみを背負っていても、それでもなおどうして私が、と問うのが人の浅はかなところです。それほどに、自分に苦しみがあるのはあってはならないこと、と考えてしまうのが人間だというわけです。
 
筆者は、この苦痛を、神が望んだものであると考えるように勧めています。罪を犯して苦しめられるのなら当然であるが、自分の罪の問題とは無関係に苦しんでいるのなら、それは神の意に適うではないか、というのです。そんなことができるでしょうか。そんなことがあるのでしょうか。悪も苦しみも神からくるのだというのは、酷ではないでしょうか。
 
キリストがその道を歩んだから。確かにその説明は間違っていません。でも、キリストが手本であるのだから、と本人の苦しみも知らずに人間がぶつけてくるのは拙いでしょう。苦しんだのはキリストであって、説得するその人ではないからです。手紙が持ち出すのは、イザヤ書による苦難の僕の姿。このように描くがために、このペトロの手紙は引用され続けているのかもしれません。
 
キリストは何をしたのか。どうしてキリストが救いなのか。私たちがその後をたどるのは何故なのか。十字架で罪を担ったからか。使徒の記録に、エチオピアの宦官がイザヤ書の意味をフィリポに尋ねる場面があります。教会の当初から、イザヤ書は教理の重要点であったことが分かります。フィリポが福音を伝えた様子を模範のようにここに遺している点に注目しましょう。
 
ここは教理としても見事なくらいに、信仰の内容がまとめられています。そこにはキリストの受難が中心に置かれています。パウロ的な立場からの信仰告白であるのかもしれません。さまよっていた者も、こうして小羊イエスの許に戻ることで、魂を牧されることとなりました。私たちに罪があるのは事実ですが、十字架でその罪の効力は消滅しました。神の救いの中で私たちは生きていくことができるようになりました。


Takapan
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