政治と自由

チア・シード

ペトロ一2:13-17   


ローマ書13章を受け継いでいるものと思われます。政治権力に素直に従えという聖書の言葉は、しばしば物議を醸しました。それでいいのか、と。ローマ書をパウロが書いてから半世紀ほどの時間を経ているのに同じことを書いているとは、政治的状況は同じものなのか、それともそもそも神の命令というのが普遍的にこうであるのか、考える必要があります。
 
確かにローマ帝国という基盤が大きく変化したわけではないと思われます。主のために従えという強い態度に、果たして迫害を受けるような立場で構えることが神の御心であるのかどうか、キリスト者とてためらうことでしょう。ただ、政治的状況において大きな変化がこの間にあったのは確かです。それは、紀元70年前後のユダヤ戦争でした。
 
宗教的な理由だけだったのかどうか知りませんが、それが大きな理由であったのは確かです。くすぶっていたユダヤ人たちの不満が、決定的な結末を迎える戦いへと進展してしまいました。エルサレムは陥落し、多くのユダヤ人が追放され、あるいは逃げ去り、祖国を奪われたディアスポラとして1900年近くの歴史を刻む始まりとなりました。
 
キリスト教徒も、ユダヤ教の一派として存していたはずでした。ユダヤ教のメシアの到来をイエスに重ね、真の聖書の具現だとしていただけですから。しかしイエスをメシアとは決して認めないユダヤ教の勢力から次第に明確に異端とされ迫害をされていくことになったキリスト教徒もまた、この嵐の中を生きぬいていくしかありませんでした。
 
パウロの時とこの手紙との間には、この出来事がありました。政治権力にただ逆らうと、どんな目に遭うかは痛感しました。だから権力に尻尾を振って従うというのか。必ずしもそうではありません。ここに書いてあるように、政治権力は社会悪を抑えます。市民にとり平和をもたらしてくれる事実は否定できません。世を治めるのが政であるはずです。
 
この期待があるために、わずかな政治の中の悪に、民衆は腹を立てることもあります。殊に一人ひとりの発言が自由にできるようになった現代、政治に不満をぶつけているのが正義だ、というふうに勘違いをする罠に人々が陥っているように見えることもしばしばあります。ただ、確かに権力は暴力を正義とするという構造があります。これは忘れてはいけません。
 
キリスト者には権力はありませんでした。その代わり、自由がありました。権力から罰されるような悪をする正義を唱える自由ではありません。かといって、国家を唯一絶対的な正義とする自由でもありません。国家の上にこそ、神がいます。自分の従うべき最高の権威は国家ではなく、神である。このような生き方をキリスト者は弁えておく必要はあるでしょう。
 
ところが、国家を拒むというのは場合によりあるはずだとしても、神をすら自分に従わせようとするような人間を、近代の人権設定と自然支配、客観の対象化などを進めた歴史は生みだしてきたことを私たちは深く考えるべきでしょう。それこそが自由なのだと勘違いをしてしまい、正当化してきたのです。愛と自由とは、真摯に考える問題であり続けています。


Takapan
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