神を異邦人が知るためには

チア・シード

ペトロ一1:17-21   


あなた方は、「神を、キリストによって信じています」(1:21)とある点に注目します。キリストを通じて、つまり経過して、神を信じていると言っています。これは、根っからのユダヤ文化にいた者ではないところへのメッセージです。先祖伝来の空しい生活を脱して、いまこうしてキリストの下に、神を信じるようになったのだというのです。
 
見えるものにより救われたのではありません。たとえ銀や金であっても、それは朽ち果てるものに属します。キリストの血もまた、ある意味で現象として目に見えるものであるかのようですが、何も血を偶像視しているわけではありません。そこにある神の痛みや苦しみ、そして愛といったものが押し寄せてくる中で、血を見ているのです。
 
キリストは、これまで無数の小羊がいけにえとして献げられてきた、そのすべてにも勝る犠牲でした。というより、もはや比較の仕様がない、次元の異なる業なのでした。有限は、いくら多く重ねても無限にはなりえません。キリストは小羊にたとえられはしましたが、「神の」小羊となる以上、超越的な意義がそこに添えられてきています。
 
かねてからの贖罪と同一視することはできないのではないでしょうか。パウロにしても、パウロに続く記者たちにしても、言葉でそれを伝えるのにたいそう苦労しています。どう言ってよいのか分からないのです。聖書の言葉を、私たち人間の低さから見えるところで、神のすべてを把握した、などと豪語してはならないはずです。
 
すでに今が「終わりの時」だと記者は言います。キリストを通して、神を人が知る時代になったのです。すでに知っているつもりのあの神がキリストを遣わしたというのとは別のアプローチが成立したのです。キリストを復活させた神というスタイルでの出会いは、民族単位でメシアを待ち望んでいたユダヤ人とは、やはり同じではないのです。


Takapan
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