聖なる者

チア・シード

ペトロ一1:13-21   


聖なるもの。何か分けられた特別な存在とされること。今ならセレブと私たちが口にするような感覚に近いかもしれません。どこから分けられているのでしょう。この世からです。誰が見ても同じように存在するこの世界。聖書はこれを地上と呼んでいます。そしてそれは空しい生活であると一蹴しています。
 
先祖代々空しいというからには、手紙を宛てている対象は異邦人なのでしょう。ならば、ユダヤ文化にどっぷり浸かり、そこから生えたキリストの救いなどなじみのないものであるに違いありません。異邦人世界へこの救いの知らせが福音として届くまでには、困難があったはずです。キリストの血なるものがどう響くのでしょう。贖いなる考え方がどう理解されるのでしょうか。
 
他人事ではありません。いったい異文化の中の私自身、どうしてキリストを信じるようになったのでしょうか。それは自分では謎解きができないしくみとなっています。分け出された当事者である私自身は、分けだした方の心を汲み尽くすことはできないのです。ただ、すでに私たちは、かの神を父と呼んでいます。その事実は否定しようがありません。
 
パウロの思想を踏まえつつペトロの名で書かれたこの文書は、使徒の権威を最大限に用いたと言えるでしょうが、この中でしきりに、聖なることが強調されています。この世の中では不当に扱われ、幸福感を抱けないであろう信徒たちですが、その扱われ方に絶望せず、ある種の誇りを伴って生きていくように励ましているように見えます。
 
この神を信じていると言えるのも、実はキリストを通してのことでした。漠然と神的存在を考えているのではなく、キリストという確たる信ずる根拠があるわけです。二千年前の「終わりの時代」にキリストが現れて、神への道を拓いて下さいました。神へと続く道はこれだと指し示して下さいました。
 
筆者は、そこから間もなく「万物の終わり」がくると考えていました。キリストが再び現れて、すべてに決着をつける時です。しかし、地球はその頃から二千回も太陽の周りを巡りました。終わりというのは嘘だったのでしょうか。たとえば一人ひとりにはそれぞれの終わりがあります。それと同時にキリストと出会う機会が備えられています。その意味では、キリスト以後の誰もが同じ条件です。信仰と希望のチャンスが用意されていることのほうを、むしろ喜んでいればよいのです。


Takapan
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