神の特別扱い

チア・シード

ペトロ一1:1-5   


神に選ばれた君たち。今は離散しているのですが、同じ救われた仲間として心強い存在です。君たちは選ばれたのだ。ヨハネのグループもしきりにそう言っていたかもしれませんが、気をつけたい言葉だと思います。どのような邪悪な意図により操られたグループであっても、これと同じ言葉を使うことができるからです。人を容易に欺くことのできる言葉です。
 
君は特別なのだ。この宣言は、私たちにとって「てこ」となります。頑として動くものかと踏ん張る精神の持ち主も、コロッと動かされてしまう、そんな力を有しています。一方で確かにこれは健全な信仰のキーワードともなりうるのですから、見分ける判断が難しいものです。だから私たちは目を覚ましていなければなりません。
 
私たちは、神から特別扱いを受けている。これも事実です。一兵卒として用いられている、くらいにしておけばよかったのです。人間、自分が特別だとされるのは、プライドの面からもまたうれしいことなのです。しかしキリストの十字架は、特別扱いを目論んでのことではないような気がします。
 
すべての人が救われるのを望む神、信じる者がすべて永遠の命を得るよう願う神の思いは、このように特別扱い、あるいは聖別を避けるところへ先ず向けられていました。しかし結局のところそれは分かたれることになります。やはり聖は聖なのです。神の特別扱いはやがて人の中に起こります。キリストが復活したからです。
 
十字架に共に死ぬことから、復活へとコースを変えたとき、私たちは新生します。この新生が、特別扱いの賜物であり、選ばれたことの結果となります。生ける希望が与えられます。永遠のものを受け継ぐ者とされます。そしてこの救いは、終末に完遂されます。実現するのです。それまで神が護ってくださいます。迫害に負けるな。健全なエリート意識をもて。


Takapan
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