ソロモンの祈りに潜む影
チア・シード
列王記上8:22-30
ついに、エルサレム神殿が完成しました。イスラエル最大の栄華の瞬間だったかもしれません。王はソロモン。父ダビデが果たせなかった神殿建設は、神に止められた故でもありましたが、子ソロモンには許されました。ソロモンは会衆の方を向き、人々を祝福します。さらに「主の祭壇の前に立ち」「天に向かって両手を広げ、祈った」のでした。
このときも会衆の方を向いていましたが、視線は天に向けていました。ソロモンは、まるで祭司です。人心を一つに集め、神との仲立ちをしています。神と直接語らうかのように、順を追って祈りの言葉を、この章の前半を費やして発します。そして後半は、イスラエルの民を祝福します。祈りは、まずは主ご自身を賛美するところから始まりました。
祈りはすぐに、ダビデとの約束の件に移ります。ダビデに神は約束しました。それを果たした神を大いに称えるのです。ダビデの中は、イスラエルにとって偉大過ぎました。ソロモンも、そのダビデの子という立ち位置の故に、この権威が与えられたというのです。兄弟たちを次々と死へ追いやるようなやり方は、母バト・シェバが企んだことでしたが。
ダビデへ向けられたという、「私の前を歩みさえすれば、イスラエルの王座に着く者が私の前から絶えることはない」との約束に、まさかソロモンからまず外れてゆくとは、このとき思いもよらなかったことでしょう。ソロモンほどの知恵があっても、信仰はまた別なのです。続いて、神はこんなちっぽけな神殿に住むようなお方でない、とも言います。
でもこの神殿に於いて祈ることを認め、聞き入れてほしいと告げます。人間には、こうした祈る場が、神との架け橋として必要なのです。「聞いて、お赦しください」と祈ったのは、この後続いて、人間の罪とそれから渡され災いのことに触れるからです。「罪を犯さない人は一人もいません」(46)というのは、自らを含め確かにその通りだったのです。