祈りの功罪

チア・シード

列王記上8:22-26   


エルサレム神殿の完成により、ここに奉献式が行われました。ソロモン王がその先頭に立ちます。王は、イスラエルの会衆の方をいま向いています。この構図は、想像する上で重要です。主の栄光を拝した後、向きを換えたのです。王は、人々を祝福します。父ダビデ王の名を高め、この建物の建築は、子なる自分に委ねられたことを強調します。
 
自分を権威づける心理からくるものかもしれません。自分は正当にこの王位に就いたのだ、ということです。それは、その陰には血生臭い闘争があったからです。王位を狙う兄弟を殺し、また父ダビデを、その妻バト・シェバが半ば騙すかのようにして動かしたと言われても仕方がないような背景があったのです。これは案外指摘されないことですが。
 
ソロモンは天へ手を挙げます。両手を広げて祈ります。これはイスラエルの祈りの普通のスタイルです。会衆と向き合った体勢であるため、主を共に見上げる人々との間に、中央で主を感じるような恰好になります。父ダビデに約束したことを、いま成し遂げたと言って主を称えます。神殿がこうして完成したのも、王位に就いたのも、主の約束なのです。
 
さらに主の約束はこれからも果たされることへと言及します。ソロモンが、そしてその子孫が、主の道を守り、主の前を歩むならば、イスラエルの王位は続くでしょう。主がそう言いましたね、どうぞ守ってください。ソロモンが、主に約束を守れと迫っています。自信に溢れた祈りです。父ダビデに言ったからには、守ってくださいよ、と。
 
大胆な祈りです。格闘した相手に祝福を求めて食い下がったヤコブよりも、なお強気です。主自ら語った言葉を根拠に、そうしろと言うのです。しかし、その自信は、ソロモンが自ら壊してしまうことになります。多くの女を招き入れ、政略的に異国の文化をとり荒れることとなって、自分も異教の神へと心が流れていくことになったからです。
 
主の道を、ソロモン自身が守らなくなるのですが、それでもここで、ソロモンは神に向かって、自分の子孫を王座に据えることを誓わせていました。神はそれを守りました。ソロモンの末に、イエスをもたらしました。ユダ王国の王座は続きませんでしたが、契約と慈しみを守る誠実さを示した主は、永遠の王を生み出してくださったのでした。


Takapan
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