ソロモンの祈りの向き

チア・シード

列王記上8:22-24   


士師の時代、カナンの各地では、それぞれの目に適う判断をしていればそれでよかったのでした。でもペリシテ人の圧力に屈することがしばしばあり、一致団結を図るそのために王制を始めます。士師であり預言者でもあったサムエルは民の声に負けるかのように、サウル王を立てます。そのサウルが戦死した後、ダビデが王となりイスラエル民族を統一します。
 
これで人々の士気は高まり、民族意識が芽生えたのか、広範囲に同じ神の名のもとに統一王国ができたとして喜びます。ただ、都はまだできたばかりの状態で、神殿建設には至りませんでした。宗教連合たるイスラエル国の真の統一のためには神殿が必要でした。ソロモンが王となり財力が増したとき、ついに煌びやかなエルサレム神殿が完成しました。
 
ソロモンが初めて、この立派な神殿を成立させることができた背景には、神の命令がありました。この奉献式もまた、そのように受け止められました。奉献式ではまず挨拶のようなふうに語ります。ソロモンは民の方を見ていたといいます。けれどもそれは、やはり神への祈りでした。長い祈りがここから展開します。民を祝福する祭司のような姿でした。
 
礼拝で牧師が最後に祝祷をします。会衆の方を向き、手を挙げて祝福します。それは礼拝からこの世界へと人々を派遣する祈りでもあります。ソロモンの祈りは、しっかりと人々を見渡しているようにも感じられますが、両手を天に広げ伸ばしていました。手の先は神の方へ向かっています。俯くのではありません。また、関心は民へでなく、神へなのでした。
 
人を気にして人のためにというよりも、魂はまさに神のことだけを思いつつ、祈る。この祈りの姿勢を私たちも貫きたいし、大切にしたいと願います。その祈りの言葉の、ほんの入口だけを今回は垣間見ますが、ここでこの神殿の建立が、主の言葉、ダビデとの約束に基づいていることを告げたことにだけは、ちゃんと注目しておきましょう。
 
ソロモンは、イスラエルの会衆の方を向き、そして両手を天に伸ばして祈りました。恐らく目も天の方を向いていたことでしょう。一体私たちは誰に向けて祈っているのでしょう。自分の心へ沈潜して自分にしか関心がないような状態ではないはずです。主は確かにこの心の内にも来てくださいますが、私の外から呼びかけ働きかけ、力を及ぼし包む方であるのです。


Takapan
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