両手を挙げて祈る

チア・シード

列王記上8:22-30   


両手を天に伸ばして祈った。語の意味そのものは「言った」です。私たちは祈りを特別なものと考えがちですが、聖書の世界では、言うことと差別はしていません。私たちはいつでも、神に心を向けることができるし、どんな言葉でも呟きでも、神に対する祈りとなることができると考えたいものです。ただ言うだけでも、それは祈りであるという考え方です。
 
この内容はもちろん私たちが普通に言う「祈り」に相応しいものです。どんな姿勢でしょう。俯いてはいません。当然顔を上げています。両手を天へ伸ばして祈るこの情景を、はっきりと思い浮かべておきたいものです。他の神はここに入る余地がありません。契約の神であり慈しみの神と向き合っており、ここまでも約束を現実化して導いてきました。
 
ソロモンは、父ダビデと神との関係にも注目しています。父の生涯をよく聞き知っていることになります。主もまたこの後「わが僕ダビデの故に」と繰り返して、後のユダ王国を守っていきます。但し、このソロモンが原因となって、息子がソロモンに輪をかけて尊大に振る舞い、イスラエルは引き裂かれ、ダビデとの契約は南ユダに限定して引き継がれていきました。
 
その道を守るべしと目された子孫は、ついに一部の民族を通してしか実現しなかったのですが、北のようにクーデターに次ぐクーデターではなく、見事に血族としての子孫がつながっていき、その末にイエスの誕生を迎えることとなりました。ダビデの子孫に現れたイエス・キリストという位置づけが、新約聖書のひとつの土台を形成しています。ただ、北のみならず南もまた、捕囚と亡国という憂き目に遭いました。
 
ソロモンは、地上の優雅な神殿に神が住まうとは考えていないようです。神にはそのような意味での神殿など必要がない、とも言っています。ただ、この神殿に心を向ける人間の祈りに目を注いでくれるように求めています。祈りと願いを聞き届け、罪を許してくれるように、とソロモンは求めています。
 
そのような場所として、役割を担って、神殿というものを備えました。ソロモンはそのように告白しました。他方、新約聖書では、私たち自身が神の神殿である、という述べ方をしています。教会堂のようなものに期待するのでなく、神の霊が住まう私たちの体という点に目を注ぎ、私たちも両手を挙げて神と向き合いつつ言葉を発していくことが求められています。


Takapan
もどります たかぱんワイドのトップページにもどります