場面を切り取って読む試み

チア・シード

列王記上19:4-6   


バアルなどの預言者と対決し、主こそ神だと人々に証明して見せる結果となりました。ここで残酷な殺戮を実行して敵の預言者を全滅させたエリヤでしたが、バアル信者である、王の妻イゼベルに命を狙われていることを知るや、もうすっかり人生が嫌になります。これまで私は幾度となくこの落差に注目してこの場面を受け止めてきました。
 
それは聖書の適切な読み方であると言えるでしょう。しかし今日、その一部が切り取られた形で私の目の前に現れました。その背景を基本的に考慮に入れず、切り取られた一部だけから得られるものはないでしょうか。そんな視点で、この箇所を捉えてみたいと思います。聖書は文脈抜きで解釈すると思い込みに走る危険がありますが、その意味とも少し違う方法で。
 
荒れ野の中を一日中歩き続けた男。照りつける太陽が命を蝕みます。そして辿り着いた、一本のえにしだの木。2、3mほどあったでしょうか。程よく葉が繁り、日陰をつくったか、あるいは寄りかかるものとなったでしょうか。この木の枝は、魔女の箒にもなって空を飛んだのだというのは後世の創作ですが、その雰囲気を醸し出すものだったのでしょうか。
 
男は自分の命が消えることを願います。「主よ」と呟くように言いますが、訴える相手が自分にとって主なる神としてちゃんといることが分かります。もう沢山だ、これで十分でしょう。この命をもう取ってしまってくれ。そう言いつつも、男は自分で絶望して自分の命を絶つということはしませんでした。命は自分の自在にできるものではなかったはずでした。
 
この主なる神は、男の先祖を導いてきました。信仰の父を選び、その神との関係をここまで保ってきました。しかし自分はそんな歴史に届くような力をもってなんかいないし、活躍もできませんでした。男は倒れ伏します。いつしか眠りました。神はその命を取るようなことはしませんでした。むしろ、男を生かすメッセージを伝えようとします。
 
「起きて食べよ」つまり復活して行きよ、という呼びかけであるように聞こえます。男は初めて見つけました。パン菓子と水の瓶は、今のいままで気づきませんでした。それまで存在しなかったのでしょうか。見ることができなかったのでしょうか。それとも見ようともしなかったのでしょうか。絶望の思いのときには、大切なものが見えていないのです。
 
そこに食べ物がありました。パンと水でした。男はそれを食べ、飲むと、また横になりました。直ちに立ち上がったとは書かれていません。神の与えたものにより生きる路線に入りましたが、まだ立ち上がることも歩くこともできませんでした。神により生かされても、まだ、しばらく打ちのめされて立ち上がれない時が私もあったので気持ちは理解できます。


Takapan
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