エリヤの切なさを追体験しよう

チア・シード

列王記上19:1-16   


その残虐さについてはいまは問いません。バアルの預言者たちを血祭りに上げ、イスラエルから一掃するという、人生最大の使命を全うした直後、エリヤは人生最悪の落ち込みを体験します。イゼベルの殺害予告を虞、鬱になってしまったのです。エリヤは、恐れを抱き命を守ろうと直ちに逃れたと記されています。なんと情けない、切ないことでしょう。
 
従者とも別れ、主に叫びます。もうたくさんだ、命を取ってくれ、と。命を守ろうと逃れたはずなのに、命を取れと主に迫るのです。この混乱、私たちにもありませんか。神の返答は「食べよ」でした。まだ道のりは遠いとも言われ、エリヤは、イエスの荒野の出来事のように、四十日四十夜歩き通して、神の山ホレブの洞穴に隠れました。
 
その夜、エリヤは主の声を聞きます。ここで何をしているのか、と。どこにいるのか、とアダムは神に問われました。エリヤのいる場所はもう知られていますから、エリヤは何をしているのかと問われたことになります。イスラエル人に命を狙われている経緯をエリヤは述べます。主がその過程を知らないはずはありません。エリヤは内面を注ぎだしたのです。
 
命を人に取られるのが怖い、というようにも聞こえます。主の指示は、「主の前に立て」でした。エリヤは主の前にずっといたはずです。しかし主の前にはまだ立ってはいなかったようなのです。さらに、出て来ることが求められています。自分の中に引きこもり、自分の思いに押しつぶされているとき、私たちは出て行くことが必要になるのでしょう。
 
主は、風・地震・火を見せます。足元を揺り動かし、風としての霊が注がれ、舌のような火をイメージしてはいけないでしょうか。でもそこに主はいません。主は、かすかにささやく声として、そこにいました。小さな声の前にエリヤは立たねばなりませんでした。顔を覆いエリヤは出てきます。声に呼ばれて始めて出て来て、立つことができました。
 
あるいは、出て来て立つことが赦されました。そうして再び問われます。ここで何をしているのか。エリヤは先ほどと全く同じ返答をします。何の進展もありません。何の成長もないようにさえ見えます。同じことを繰り返して、堂々巡りをするのでしょうか。いえ、それでもなお、出て来て主の前に立っています。何かが違います。
 
主はエリヤに、新たな使命を与えます。引き返せ。恐れるな。逃げるな。この世の流れを大きく変える人物を、油注ぎを施して生み出せ。また、エリヤの役割は次のエリシャという後継者がいるからそれに任せよ。大活躍の後、後始末をするかのような使命を受けて、エリヤは再び歩き始めるのです。その報いも、実はちゃんと用意されていました。


Takapan
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