エリヤに身を重ねて

チア・シード

列王記上19:1-18   


多くの注目点のある箇所だと思います。私にとりその一つひとつが迫ってくる、珠玉の物語です。カルメル山でのエリヤの活躍は痛快ですが、よく考えてみると、それはバアルなど異教の祭司の大量殺人でした。今でならそのように記すところでしょう。これはあまりに残酷です。私は、自分の中の偶像を棄てた経験に重ねて読んで体験することにしました。
 
その時、周りの人や社会で付き合う人たちとの関係が変わってきます。攻撃や迫害を感じることもあるでしょう。家族の反対は最も大きいかもしれません。イゼベルなる敵がどこかにいたかも。それに立ち向かえず、逃げるしかない時があります。辛いと嘆きます。ただ、そこで主に嘆くのであるかぎり、主は応えてくださいます。
 
エリヤは食物を与えられ、元気を取り戻します。パンでなく神の言葉により生きる私たち。それからの道のりは四十日歩き通す遠さがありますが、果てしなく歩き続けるエリヤは、モーセの山へ辿り着きます。エリヤは第二のモーセとなりました。イスラエルの神と出会い、対話をします。主は問います。ここで何をしているのか、と。
 
まるでアダムに神が問うたような言葉ですが、こうして神は、人類史とイスラエル史を重ねて私へ体験させます。あなたはすべてを背負ってここにいる。エリヤは、主に仕えることで迫害され孤独なのだと主に弱音を吐きます。主は、出て来て主の前に立て、と促します。どんな時でも主の前に出ることが肝要です。実のところ常にそうなのですが。
 
いいから、そのような心を持て。神は私を引き出します。自分では立ち上がれなくても、神が実現するべき言葉によって、私を立たせます。すると目の前で事件が起きます。風が岩を砕き、地震が起こり、火が上がります。ただ、そこに主を見ることはできませんでした。主は、現象そのものではないのです。それは徴にはなっても、神自身ではありません。
 
神は、ささやくように、かすかな声で臨みます。派手なパフォーマンスは不要です。真実な主からの交わりは、しみじみと迫り、包んできます。モーセは神を見るのを恐れて顔を隠しましたが、そのようにエリヤも街灯で顔を覆います。ペトロもイエスの前に顔を出せないままにひれ伏しました。ひとは、自らを知るならば神の前に立てやしないのです。
 
それでも、エリヤは出て行きます。ただ神の言葉に促されて、立ち上がり、外へ出ます。そして神の前に立ちます。ひとり立ちます。何をしているのか、と同じ問いを神が投げかけ、エリヤはまた同じ返答をします。ペトロも、問われれば同じ返答しかできませんでした。神はそれでよいとするのか、それともエリヤを見限ったのか、それは分かりません。
 
主はエリヤに、引き返せと命じました。もう先へ進む必要はないのです。エリヤの使命は、次世代への引継ぎでした。地上の王としてハザエルとイエフを立てよ。これで歴史が変わります。味方は何千人もいます。また、預言者としてはエリシャを選べ。モーセからエリヤ、そして実のところイエスへとつながる糸をここに見ます。変貌山の出来事を思い起こします。
 
先へ進めなくなった、傷ついたエリヤ。私もまた、もう自分の役割はここまでだ、という時がくるでしょう。神は呆れるかもしれません。しかしまだやり残した仕事があるに違いありません。引き返してなお、できることがあるはずです。神は最後にエリヤを天に凱旋しました。モーセもエリヤも最期は謎です。これがイエスの復活へとつながっていくのです。


Takapan
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