昔話ではないカルメル山のエリヤ

チア・シード

列王記一18:7-30   


いつまでどっちつかずに迷っているのか。イスラエルの神である主と、王妃イゼベルがシドンからもたらした神々あるいはカナン土着の神々との間で、イスラエルの民はどちらとも決めかねずにいたことに対して、エリヤが問いかけます。この状況は、考えてみれば異常です。人々は信仰において、このような曖昧な姿でいるはずがないのです。どちらを信じようかなぁ、とうろうろする宗教が、あるでしょうか。
 
もちろん同じシチュエーションではありませんが、私は、戦時期の日本のキリスト教会を重ねて見ました。当局の監視の下で、教会に集まりつつも礼拝では天皇ないし宮城を拝していた、あの風景です。これに近くはないのか、と。もちろん、ナチス下のドイツ的教会に当てはめて想像してもよいかと思われます。民はひと言も答えられませんでした
 
エリヤ一人が主の預言者として残っていたとありますが、やや大袈裟に聞こえます。預言者オバドヤが、主の預言者百人をかくまっていたと言うからです。きっとその人々の祈りに支えられて、エリヤは立ち上がったのでしょう。エリヤの他には誰も、主のみが神だと立ち上がってものが言える人がいなくなった有様を描いているのではないかと思います。ホーリネスの弾圧などを思い浮かべてもよいかもしれません。
 
エリヤは今、主こそ生ける力ある神だと主張し、バアルなどは偶像に過ぎぬことを証明しようとします。アハブはこのエリヤに、イスラエルを悩ます愚かな者だとせせら笑いますが、エリヤは怯みません。そうして、講談調に語ることも可能な、この滑稽なバアルの預言者たちの様子が展開されることになります。エリヤは、バアルさんとやらは多忙なのかお出かけなのか、とからかいつつ、次にいよいよ主の尋常ならぬ力を顕すことをやり遂げます。
 
そのとき、祭壇と献げものの雄牛を、わざわざ水で濡らすことまでしました。これから燃やすのに、水をかけるとはありえない準備です。それほどに、焼き尽くす主の力への強い信頼があったという物語であります。このときエリヤは、迷う羊のような民を自分のほうへ呼び寄せて、壊されていた主の祭壇を修復します。
 
あの戦時期、教会の祭壇は壊れていたのです。バアルならぬ天皇や国家を拝するために、生ける神の祭壇は破壊されてしまっていたのです。かの人々を、私は責める気持ちはありません。もし今そういう時代になったとしたらどうするか、私には自信がありません。けれども、どっちつかずに迷うのかというエリヤの声を聞く者でありたいと思います。そしてその時、黙っていたくはないと思うのです。


Takapan
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