対決シーンを無視してみよう

チア・シード

列王記上18:20-39   


イスラエルは雨が3年間途絶え、飢饉に見舞われていました。エリヤは主から、雨を降らす約束を受けて、アハブ王のところへ出向くことになりました。ここをまず押さえておく必要があります。この後エリヤは、バアルとアシェラの預言者を残虐にも一掃することになりますが、それは主に命じられた目的ではなかったように見えるのです。
 
エリヤはこの預言者たちの壊滅を通じて、雨を降らすことを目指していたのです。アハブ王も策がありません。憎きエリヤの求めに素直に応じています。対決シーンでエリヤは、これら預言者たちをまともに相手にしていません。揶揄し、軽く見下すようにして事を成しています。むしろ、エリヤが問いかけているのは、イスラエルの民でした。
 
いつまでどっちつかずに迷っているのか。主に付くのか、異教の預言者に付くのか。迷っているとなると、これは一方的にバアルやアシェラに仕えているのではない、とエリヤが見通していることになります。イスラエルの民も、主を心にかけてはいるのです。ただ表向き、王の顔色を窺いつつ、迷っているのであり、いわば二枚舌のようなものなのです。
 
民はエリヤの問いかけに、一言も答えませんでした。王が見ています。アハブ王の妻は異教の信仰者。これを否むことは、王から否まれる恐れがあるのです。ただ、民はエリヤを否定はしませんでした。エリヤは、この民は、何かをきっかけにして、一気にこちらに傾くかもしれない、と読みました。それで次の策を打ったと私は思うのです。
 
そうして対決シーンがあり、最後にイスラエルの民は、主こそ神です、と繰り返し、エリヤに従いました。預言者たちを殺戮したのです。ある意味で恐ろしいことです。民衆は、ひとつ優位な権威が現れると一気に動き、残虐なことも平気で行えるのです。派手なエリヤのパフォーマンスのシーンに目を奪われがちですが、この民との駆け引きに気づきたい。
 
民は対決シーンの間、舞台から姿を消します。私たちは事を見守るとき、背景に身を引いているものです。自分がまるでその現場世界に属していないかのように思いこみ、また振る舞います。読者となった私たちも、このエリヤと預言者たちの対決を、観客のように離れて眺めているだけです。つまりは、どっちつかずの二枚舌であるのです。
 
主こそ神です、と告白するところからスタートするのでなく、この世の価値と立場を守るところから、離れることができなかったのです。いっそこの対決シーンを全く見ずに、切り取って読むべきなのです。そして民の中の一人として、自分がそこにいたものとして読むのです。傍観者となっていることに気づきます。無責任な立場にいると分かります。
 
私はそこで何を聞き、何を見たでしょう。神にどのように迫られ、どう応えたでしょうか。いったいどちらが勝つかしらと見物し、優位なほうに従おうと、戦国の合戦の様子を見守った農民のように、情況を観察していたのではないでしょうか。強いのはどちらか様子を窺うことしかできない、どっちつかずの迷い人ではなかったのでしょうか。


Takapan
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