キション川の意味

チア・シード

列王記上18:20-40   


エリヤはまもなく預言者としての職を全うしようとしていました。ここで大きな一花を咲かせることを事前に察していたかどうかは知れませんが、アハブ王に呼び出された時に、これが大きな勝負になるであろうことは分かっていたと思われます。殊に王妃イゼベルがイスラエルの国を悪くしている張本人であることは明らかです。異教を持ちこんだのです。
 
オバドヤを介して、エリヤの許にアハブ王自ら会いに来たのは驚きでした。エリヤは王に、偶像のバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人を一堂に集めよと依頼します。そしてカルメル山での有名な対決については、細かく語るゆとりがいまありません。面白いと言えば面白い出来事ですし、信仰について教えられることもあります。ぜひお読みください。
 
この対決で生ける神の火をまざまざと見せつけられると、民は偶像に預言者たちを殺戮します。さっきまで偶像のバアルとアシェラを拝していた者たちが、ひとたびエリヤの神が生きてはたらいたのを見た瞬間にエリヤの言う通り動くのもどうかと思うし、この残虐さを野過ごすこともできませんが、この殺戮の現場はキション川の渓谷であると記録されています。
 
そこは、メギドを見上げる地だと思われます。黙示録のハルマゲドンの戦いの地です。カナンの将軍シセラを、かつてバラクと女預言者デボラが対決することになり、ヤエルという女によりシセラが殺されたのはタボルという地でしたが、それもここにあります。タボル山はイエスの姿が変貌した山ではないか、とも言われています。曰わく付きの地なのです。
 
もし象徴的に読むことが許されるとすれば、神の業を知って自分の中のバアル信仰を残らず消し去ることとして捉えるのもよいでしょう。金や富を実のところ崇拝し、経済を神としているようなあり方をしていないか、点検させてもらうとよいのです。株価や交渉のため大声を張り上げ血を流すまでに日々働いている自分の姿を見せつけられる気がしないでしょうか。
 
泣いてもわめいても何の反応もありません。金の神はどうしたのだと叫んでも、自分のためには何の力も見せてはくれません。エリヤは勿体ぶって、凡そ人が考えてありえないような情況を儀式的に準備します。無駄そうにも見える礼拝を、キリスト者は毎週淡々と続けていますが、このエリヤの段取りの中に、重ねて見ては如何でしょうか。
 
エリヤは自分が主のしもべであると宣言し、神の言葉によってなすという祈りを天に向けて捧げます。そうしたときに、主の出来事が顕わになります。ただ、神ならぬものにお伺いを立てるような生き方を一掃するのは、まだこれからです。私たちはたぶん、エリヤのように勇気を以て、偶像を慕う心を完膚無きまでに殺し亡くす決戦を果たしてはいないのですから。


Takapan
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