神を愛する生き方

チア・シード

ヨハネ一5:1-5   


神は愛です。神は私を愛しています。私も神を愛しています。この関係性の中に成り立つのが、「神は愛です」という命題。ならば当然、目に見える自分の兄弟をも愛するはず。そうでないと、神を愛することなどできないでしょう。この兄弟とは「イエスがキリストであると信じる人」「神から生まれた者」「神の子どもたち」のことです。
 
では神を愛するとは具体的にどういうことをいうのでしょうか。それは、神の戒めを守ることだ、と手紙は告げています。戒めとは何でしょう。それは古い戒めを新しい戒めとして改めて宣言したものであって、兄弟を愛すること、互いに愛し合うことだ、と2章以来ずっと述べていました。手紙全体が、ひとつの同じことを伝えようとしてきたのです。
 
それは決して、戒めとして難しいものではありません。このことを手紙は、世に勝つことだ、とも考えています。互いに愛し合うこと、これが世に勝つことである。このように読まないと、ここで手紙が何を言っているかが分からなくなります。しかも、それが信仰なのだと言います。厳密には、世に勝つその勝利を、この信仰により獲得することになります。
 
私たちはイエスが神の子であると信仰しています。だから勝利です。目に見える兄弟と呼ばれるのは、私たちから見て別の人ですが、私たちも確かにその中に含まれています。世に勝つことも信じています。愛することが勝利なのだと信じています。すると逆に考えてみましょう。この世ては何か。それは、愛し合うことのない世界ということになります。
 
ヨハネの手紙がこれをやたらと強調するのは、このヨハネのいる共同体が、うまくいっていなかったからだ、と深読みすることもできるでしょう。現実の教会が愛し合えていないから、がたがたしているから、だから愛し合うことが大切なのだよ、と叫んでいるのかもしれません。問題なく仲良くうまくいっているときに、わざわざこんな手紙を送るでしょうか。
 
確かに、私たちもそう肯かざるをえないような気がします。教会は愛を具現しているでしょうか。教会のあの人がどうだ、この人がどうだという不満ならいくらでも湧いてくるのでは。では果たして自分はどうでしょう。教会の別に人にとり「あの人」と指さされているに違いありません。自分の、そして自分たちの生き方や考え方は、世に勝っているでしょうか。


Takapan
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