永遠の命

チア・シード

ヨハネ一5:13-21   


永遠の命と死とを対比させている箇所。さほど珍しいことではないかもしれません。けれども考えてみると、普通は命と死です。永遠でない命というものがあると考える以上、やや極端な対比がなされていると見ることもできます。私たちの想定に反して、ヨハネの手紙が対立させる概念は、死に対する永遠の命ということのようです。
 
ならばこの死は、単なる生物学的な死とは考えにくいでしょう。神の子の名を信じる者は永遠の命をすでにもっており、そこでは願いが叶うやら、喜びに満ちるやら、良いことずくめです。神の言葉は同時に実現という属性をもつのですから、神の言葉を信じるということは、それがもう現実のものとして受け止めることができるということを意味するはずです。
 
ここに、罪の概念が絡んできます。但し、死に至る罪とそうでない罪とが区別されている点にも注文すべきです。後者は、神の子の名を信じる者の願いによって、その人に命を与えることができると説明されています。これは大きなニュースです。執り成しは確かに命を与えるのです。少なくとも、命をもたらすことになるのです。
 
私たちは、確かに執り成しの祈りをします。でも、なかなか祈りが聞かれないなどと口に出します。そのうち、聞かれないのが通常なのだというふうに思い込んでいきます。しかしここでは、その祈りに絶大な力があると言われています。他方、死に至る罪もあり、これはもう救うように願えとは言わない、と突き放すような言い方がなされています。
 
これは厳しい。この境界はどこにあるのでしょう。不正か否かによるものではないように言っている点を押さえておきましょう。神の子の名を信じる者、それは神から生まれた者であるわけで、このニュースをこそ、私たちは知らせていく必要があるものと思われます。そのときの要点は、私たちは真実な方を知る力が与えられていることです。
 
知るとはひとつには出会うことです。向き合い、交わって関係を成り立たせていることです。真実な方とはもちろん、イエス・キリストのことです。私たちはすでにこの方の内にいます。この方を内に住まわせると共に、その内にいます。キリストを着るというイメージは、どうやら相当に大きいようです。キリストに私たちは包まれて守られているのです。
 
このイエス・キリストこそ、永遠の命です。ヨハネの手紙は、そう高らかに宣言して、突如終わります。いえ、正確にいうと、最後に一言、蛇足めいたものが付け加えられています。偶像を避けよ、という注意喚起です。いくら永遠の命と仰ぐにしても、そのキリストをどうやら偶像とすり替えてしまうのです。そして自分ではそのことに気づかないものなのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります