神を愛することは

チア・シード

ヨハネ一5:1-12   


神を愛する、と私たちは口にすることがあります。祈りにおいて、また信仰の告白において、そして賛美の歌詞の中で。他方、そんなことは畏れ多い、という意見もあるでしょうが、主を愛します、という告白に意味がないはずはありません。もちろん、それは神からの愛と同じものであることはできません。欲しいものを求める愛とも異なりますが、神の愛と質的に通じるものは含まれていると考えたいものです。
 
一体、愛とは何なのでしょうか。哲学的なテーゼが必要なのではありません。かつて邦訳がなされた中で、聖書の中のアガペーなどをどう訳すか、先人は苦労しただろうと思います。「大切にする」と訳したものも初期にあったようです。よい工夫だと言えるでしょう。無限の愛の側面が人間には見えるでしょうが、ヨハネ文書では、神の掟を守ることが神への愛だと言っています。
 
愛し合うように、という命令としてそれは現れますから、実のところ論理は循環していて、説明は困難になります。しかしイエスが神の子であることを信じる、という軸がそこにはあるように思われます。どうして神の子なのでしょう。後半でそれが扱われます。霊と水と血とが並べられていますが、原文は読みづらいとされ、すんなり理解しやすい語の構成ではなさそうです。

しかし、結論として霊・水・血の三つはひとつとなります。恰も父・子・聖霊の三位がひとつの神であるかのようです。核になるキリストにかの三つが関わり、聖礼典とのつながりを読み取ることもできるかもしれません。神学を展開したい場合には、なかなか興味深いところであるのではないでしょうか。
 
ここに「神の証し」という表現が現れます。神についての紛れもない証拠があるのです。神の証拠が偽ろうはずがありません。神の証言を疑う人間とは何者でありましょう。私たちが、イエスを信じるということの中心部分がここに見えてきそうな気もします。神とキリストとの関係がが確かなものとして私の内にあること。神の信実をそのままに受け止めていること。そこにこそまた、神の掟を守ることや愛し合うということがつながってきます。
 
永遠の命という、神から与えられる絶大なる恵みも、ここに発するものであるはずです。神の子イエスと私とが結びつくところにのみ、その道ができます。しかし「御子と結ばれている人」の訳は原文では「子をもつ者」というような表現です。子をもつ者は命をもつ、と言っています。愛するとは、子をもつことに違いないのです。


Takapan
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