愛と命の共同体たれ

チア・シード

ヨハネ一3:13-18   


「互いに愛し合うこと、これがあなたがたが初めから聞いている教えだ」(3:11)と言うのを、もう少し展開しています。「愛し合うこと」の具体的な姿を明らかにしているとは言えないように見えながら、やがて一つの例を示します。「世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て憐れみの心を閉ざす者」です。そこに神の愛はありません。
 
キリストにある者は、世に憎まれることがあります。それも、ままあることです。しかし、「キリスト者は「死から命へと移った」者です。なぜなら、「きょうだいを愛しているから」です。愛は命とつながり、憎むことは死とつながります。そればかりか、「人殺し」とまで言います。そこに「永遠の命をとどめていない」ものを見ます。
 
ヨハネの名をもつグループは、愛を強調していました。私たちはそこに、明るい光を覚えます。和やかな共同体を想定します。けれども、もしかするとそれは、内にだけまとまった集団で、他のグループからは離れて背反した組織であったのかもしれません。「きょうだい」と称する対象は、ヨハネグループの仲間のことだとみることもできそうです。
 
イエスの弟子たちの中でも、その強調するところや境遇によって、自然とグループに分かれてしまうことはあったでしょう。その後のキリスト教に於いても、そうした分かれ方は避けられません。いまや一つひとつの教会が、その内部でだけ、「きょうだい」と互いを呼び合う関係に収まっていたのかもしれません。
 
富と貧しさの問題こそが、その愛の行いの代表的な実例であった場合があったでしょう。それと同じように、ここからも、一つの組織の内部での交わりというものがあったように窺えるというわけです。そのとき、ただ口先だけで「愛」を連呼するようなことは、無意味です。「行いと真実をもって愛そうではありませんか」との提言がここにあります。
 
ここで「真実」というのは、「信仰」と同じ語ではなく、「真理」の意味の語です。この辺り、訳語は少々不親切です。「信仰」と「真実」が同じ場合もあるのです。「きょうだいのために命を捨てるべき」というところにまでそれは登り詰めるため、勇み足を承知で言いますと、私たちの心の変革と気づきを促す訴えに、向き合いたいものだと思います。


Takapan
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