子どもの祝福と神の国の関係

チア・シード

マルコ10:13-16   


注目したいのは、子どもの祝福から金持ちの男へのつながりです。マルコの並べたままに、マタイもルカも揃えて置いているのです。マタイやルカは、それぞれの編集意図をもっており、自分の関心や思惑によって、マルコから拾うときに記事の順序を自由に入れ換えます。この周辺でも他の記事はばらばらに置かれています。しかし、このつながりは触りません。どうしても、ここに強いつながりを見出していたのてばないかと推測されます。
 
突然、人々が現れます。子どもたちを祝福してもらう意図をマタイは説明しています。イエスに触れてもらうという表現では不十分と考えたようです。弟子たちは、子どもたちの出る幕ではない、むしろうるさいとこれを一蹴します。イエスはこれに対して明らかに憤りを表しました。
 
神の国は、どういう者のものであるか。まず、子どもたちのものである。そして神の国に入るのは、子どものように神の国を受け容れる人だけであると言うのです。ここで、比較の対象の子どもをどう読むかで解釈が分かれます。子どもが神の支配を受けとる、そのように大人もすればよいのか。それとも、子どもを受け容れることで、大人は神の国を受け容れるべきであるのか。通例、前者の理解がなされます。でないと意味の流れが作れないからです。
 
では、金持ちの男は何がいけなかったのでしょうか。財産を捨てられなかったことが咎められたのでしょうか。使徒言行録でも、金をすべて捧げよというように見える考えが聖書には見えないこともなく、またそのために後に修道院ができていった面もあるのかもしれません。しかしここで私は、掟は守っていると主張する男が、物を売り払うことにはどうしても従えなかった点だけに注目したいと思います。
 
これがもし、子どもだったらどうしたでしょう。お母さんと別れるか、オモチャを取るか、どうするか。ここでオモチャを取る子はいません。これは子どもが神に従うほうを選ぶということを意味します。自分の持ち物と神さまとどちらを選ぶかという段になると、子どもは神さまを選ぶ、イエスはそのように指摘するのです。
 
ここに登場する子どもたちは、親がわざわざ連れてくるほどの年齢の子どもたちです。ようやく立つことができる、その程度の子どもです。誰も、財産に執着などしてはいません。この子どもたちは、すでに天に宝を積んでいると言えましょう。そういう生き方ができる生活の中にいます。この子どもたちを、イエスは抱き上げました。金持ちは、子どもの時「から」律法を守っていたと言いますが、実は子どもの時「は」守っていただけなのです。私たちは、どうでしょうか。


Takapan
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