惑わされないために

チア・シード

ヨハネ一3:1-12   


二元論的思考は、人間にとり容易なものです。聖書の解釈も、二元論で説明してしまおうとするグループが、教会成立後しばらくたつと起こってきました。その説明の鮮やかさが魅力となり、多くの弟子たちを奪っていった可能性があります。これは、イエスの従う者にとり、危機でした。ヨハネの手紙は、そういう勢力への敵対心が露骨に出ている文書です。
 
それは危険な橋を渡ることでもありました。いったいどちらが正であり邪であるか、人間の側では根拠を持ちえません。どちらも、自分が正しいと言い張るしかないからです。ここに「誰にも惑わされないようにしなさい」とありますが、これは同時に、その当のヨハネの手紙に惑わされないようにせよ、という皮肉めいた指示をも告げることになります。
 
一体何を信用すればよいのでしょう。何も信用してはならないのでしょうか。歴史の中の教会を信頼するなら、こうしてカノンとして遺った聖書が信用できるでしょうか。聖書のみ、というその聖書は、当時の教会が定めたものだったのです。では教会こそ聖書より上に立つのか。ここに、私たちへの問いかけがあり、どこかで考えなければならない問題となっています。
 
イエスの現れにより、私たちは神の子とされる約束を受けました。イエスが再び現れることを前提として、そこでもたらされる恵みをイメージするように、手紙は訴え続けます。ヨハネによる福音書で、父なる神と子なる神イエスとの結びつきが強調されていましたが、私たちはその父のつながりに於いて救われているわけです。
 
すでにいま神の子であると手紙は言い切っています。再びイエスが来るとき、はっきりとすべての謎が明らかにされることになるでしょう。イエスに似た者となるであろうというのは憶測に過ぎませんが、天国の鍵を握らされたペトロも、そのような世界が扉の向こうで待っていることを信じているだけなのでした。
 
神の側に属すか、悪魔の側に属すか、それのメルクマールは罪です。これは二元的です。2つに1つという正解は、罪という標識に基づいて区別されます。しかし神の子の立場にあっては、罪を犯すことができない、とまでえるにしても、それはイエスひとりのはずです。それでも、私たちも神の子とされたのです。神の側にいるのでなければなりません。
 
私たちを吟味する基準は、正しい生活と愛することだとヨハネは示します。プライベートな世界で、これは大きなチェック・ポイントとなります。生活レベルではこうした点が重要です。大局観は必要ありません。全体を見渡すのは、限られた選ばれた者たちで十分です。惑わされないために、この手紙に忠実にしていればよい、と筆者は言いたいのでした。


Takapan
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