闇を知るからこそ
チア・シード
ヨハネ一2:7-11
「きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません」と手紙は断言します。「光の中を歩む」(1:7)ことは、罪から清められることを意味していました。「神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています」(2:5)という故に、私たちは「神の内にいる」(2:5)のです。そこで「愛する」ことが登場します。
この後、3章4章と、手紙はとてつもなく「愛」を取り上げ、それを中心に展開します。もう絶賛です。その萌芽がここに見られる、と言ってよいと思います。これは「古い戒め」であったはずなのですが、「新しい戒め」として再び書き送るのだ、としています。旧約聖書の律法にも、弱者への配慮は随所にありました。
たとえば、寄留者を助けること、寡婦を守ること、貧しい者へ落ち穂を残しておくことなどです。旅人をもてなす文化も、その流れを汲むものなのかもしれません。イスラエル民族そのものが弱小の民であったことに、思いを馳せるように、とも命じられていました。ホセアは、神の痛ましいほどの愛を、預言者自らの身に及ぶものとして教えられました。
けれども、新約の眼差しはまた違います。ヨハネのグループのイエスは、特にその愛を強調するものでしたが、たとえ「愛」という語を持ち出してこなくても、イエスの生涯が、そしてイエスの十字架の救いが、全く以てその「愛」を余すところなく教えてくれていた、と言えるはずです。イエス自身が、正に「愛」そのものなのでした。
新しい契約に於いて、新しい戒めがこうして与えられています。ヨハネ伝の冒頭の箇所にも、「まことの光」(1:9)として、そのイエスを指し示す場面がありました。いままた「まことの光が輝いている」ことを指摘します。それは、闇を強調することで、さらに際立つように、対比の中で述べられています。すでにその闇は過ぎ去ったのです。
光なるイエスのところに来るならば、闇はもうありません。逆に「きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます」し、「自分がどこに行くのかを知りません」ということになります。その人は、見えないのです。この対比なくしては、光は分かりません。自分の中に闇を知ることは、一度どうしても必要なのです。そこでこそ、光なるイエスに会えるのです。