敵の影がちらつく中で届ける愛のメッセージ

チア・シード

ヨハネ一2:7-11   


このメッセージは何のために送るのか。目的をあまりにあからさまにするのは、謎めいた説教にしたいときには、無粋なものとなることでしょう。けれども、顔を合わさない中で、誤解のないように勧告する、助言する、そのためには、はっきりと目的や結論を伝えることは必要なことだと言えるでしょう。
 
離れた相手には、ベタでも構いません。文化や環境の異なる人々に向けてのメッセージであれば、なおさら、届ける言葉に気を払わなければならないでしょう。罪を犯すな、ヨハネ文書はこれを伝えます。何も新奇な教えを説き起こすつもりはない、と念を押します。それは、誤解して当初の福音を外れたものを真に受けてしまわないためでもありました。
 
かつてイエス・キリストのことを初めて聞いたとき、何をあなたがたは信じただろう。あなたがたは何を受け容れたのだろう。それなのに、後から入り込んだ、理屈を聞くといかにも正しいかのように聞こえる宗教思想、具体的には恐らくグノーシス派と呼ばれるグループに取り囲まれたあなたがたは、危機の中にあると知らなくてはなりません。
 
決して新しい教えを展開するのではありません。初心に帰れという、それだけのことでもあります。それなのに、ヨハネ文書は、いま改めて新しいものとして、換言すれば新鮮な形で、あなたがたの目の前に掲げようと言います。惑わされそうになっている教会へ、新たな姿で、改める機会をつくりましょう。
 
すでに、神は光であると説明しました。その光の中をあなたがたは歩むのです。この光は、真実の光です。知識を認識するといった理屈ではありません。実際その中を歩んでいるという実感が尊いのです。それを思い起こしたならば、愛することが導く生活の中に、あなたがたはちゃんといるということになるでしょう。
 
兄弟を愛すること。それについては、ここから先で詳しく述べていくことになります。もちろん、ここで兄弟というのは仲間のことです。人類が皆兄弟なのではありません。敵は確かに存在します。文字通りの博愛を貫く必要はありません。ただ、敵か味方かが、見分けがつきにくいだけのことです。敵と思っていても、実は味方であるのかもしれません。
 
十戒の、殺すなかれ、という命令は、敵を殺すことについては禁ずるものではありませんでした。しかし、それを理由に、自分で勝手に敵と決めつけて殺すことが適切かどうか、それはまた別問題です。そこに現代倫理の問題が起こります。ただ何らかの形で、闘う相手というものは存在します。どこで線引きすればよいのか、そこが難しいのです。
 
ヨハネ文書は、明らかに教会共同体に向けてこのメッセージを送っています。キリストにある共同体が壊れようとする危機があったのです。教会が闇の中に包まれようとしていると思われたのです。必要なのは、もちろん見せかけの愛ではありません。愛はキリストです。キリストに反するところから身を離す知恵は、愛の光の道を照らすことでしょう。教会は、互いに憎まず、愛し合う者たちの仲間なのです。


Takapan
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