若者たちの危機

チア・シード

ヨハネ一2:12-17   


あなたがたは知っている。分かっているね、と迫ります。父なる神を、つまり世を創造しすべての原初にあった方を、知っているはずだろうと迫ります。あなたがたは、赦されているのだ、と分かっているはず。悪魔に勝ったことも、もう知っているはずでしょう。行きつ戻りつ、ヨハネの共同体のためにメッセージを重ねていきます。
 
ヨハネの筆は、悲痛な叫びを発しているようにも聞こえます。事態を楽観して呑気にこの手紙を書いているとでもお思いでしょうか。世を愛してはならない、などと、笑顔でアドバイスしている場合だったでしょうか。新しい起きてで、愛し合おうとのんびり呟くとでも言うのでしょうか。もしかすると教会はずたずたになっているのではないのでしょうか。
 
わざわざ愛し合うのだと叫ぶのは、とても愛がない状態にあるからなのです。詩のように、定文のように、子たちよ・父たちよと呼びかけており、若者たちへはくどいくらいに呼びかけています。悪魔との戦いに勝利したというのは、若者たちへ向けてだけです。そこに、いくらかの勝利した若者が遺されているからです。多くの若者は、教会を出て行ったのです。
 
若い世代の離反が顕著で、教会の中の若い世代が新しい思想に引き込まれていく姿を見送ったと思うのです。若者は新思潮に魅力を覚えても当然です。ヨハネは、その思想を世にあるものにすぎないと看破していますが、実際そうでしょう。居残った若者たちに向けて、あああなたがたは正解だった、悪魔に勝ったのだ、と労うような口調に聞こえます。
 
そのカッコイイ思想は、人から出たものであり、人の好みを穿ったもので、どんどんと広まっていきます。どんなに神の名を口にしようと、人間の知恵で操るだけの神学は、肉の欲からのものに過ぎません。だからヨハネは、この箇所に続いて、反キリストについての警告を投げかけていたのです。終わりの時の反キリストはかつての仲間であったのです。
 
分かれて行った、恐らく若い世代の者たちは、御子を否定して偽りへ惹かれて分かたれていきました。初めから聞いたことに留まることができませんでした。だからそれは、道徳的に堕落したという意味ではありません。彼らは敬虔な生活に憧れそれを求め、かつ御子イエスを誤解して突っ走り、自己満足の道を暴走していったのです。
 
いや、他人事ではありません。これは昔の話だけなのでしょうか。これは今もあるのではないでしょうか。また、自分たちがそうならないという保証もありません。自ら納得した救いの理論が重ねられていくうちに、どこからか自らの思想こそ正統だと自ら決め、その実自分の腹に仕えているだけ、ということが、次々と起こっているからです。


Takapan
もどります たかぱんワイドのトップページにもどります