光なる神と罪の告白

チア・シード

ヨハネ一1:5-10   


「ヨハネ」と名の付くグループは「命の言」(1:1)について告げます。それは「永遠の命」(1:2)そのものでした。手紙の送り主たちは、これを見ました。それを証しするのだといいます。そうして仲間になろうと言います。共に喜ぼうともちかけます。そのためには、何を信じればよいのでしょうか。神の愛の中へいらっしゃい、との手紙です。
 
互いに愛し合うことのすばらしさへ、手紙は誘います。その発端は、自らの罪を知ることです。「自分には罪がない」と言うのは、自己欺瞞です。このとき真理は、つまりイエス・キリストは、そこにはいません。そこには救いがないのです。しかしこの次には、私たちは「罪を犯さないようになる」(2:1)のだ、とも言っています。
 
罪の中にあることと、罪を犯すこととは別のことです。神の赦しは、これまでの自分の罪に働くし、殊更に故意に犯さなければ、これからの失敗にも必ず与えられます。「罪を犯したことがない」などと言うのは、最も害の大きいことなのです。神の言葉を自分の内から追い出すことであり、救いを撥ねつけることになってしまいます。
 
それは、言なる意味を拒むことなのです。永遠の命を否むのです。ただ、そこへ至るまでに、手紙は神のすばらしいあり方を前提としてここに挙げていました。手紙の実質の内容に入るや否や、「神は光であり、神には闇が全くない」と知らせていました。光と闇の対比は分かりやすいと思います。でも現代の私たちは把握していないようです。
 
私たちは、光と闇の区別を曖昧にしています。昔日のそれらは、くっきりと分かれていたはずです。夜に明るい街灯があるわけでもないし、イルミネーションもありません。恐ろしいほどの、そのどちらだという選択が迫っているのが当たり前だったのではないでしょうか。私たちは、グレイゾーンに逃れることはあっても、峻別は避けています。
 
神と交わりをもっているという口を叩きながら、その実、闇の中を歩んでいるとなると、とんでもない偽りだったに違いありません。神の光の中を歩むというのは、罪がないとアピールしたくなることかもしれないが、実は真逆である、それがここでのメインのメッセージなのです。「御子イエスの血によって」、私たちは罪から清められるからです。


Takapan
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