イエスと出会う

チア・シード

ヨハネ一1:1-10   


なんとも簡潔な表現で、なんとも難解な、ヨハネによる福音書の冒頭を思い起こします。「初めに言があった」というその始まりにも似た、「初めからあったもの」を伝えるという、同じヨハネの名を掲げる手紙です。それは「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」であるというのですが、これもまた謎で難解でしょう。
 
このヨハネによる福音書の冒頭を意識していることは間違いありません。また、そこをよりコンパクトにまとめようとしているかのようにも見えます。テーマも用語も同じで、ここにも「命の言」とありますが、その「言」とはイエス・キリストのことを表しているという理解は、間違いのないものだろうと思います。
 
一体、言がどうしてキリストなのか。言はギリシア語でロゴスといいますが、これは普通に言葉を表すほか、談話や説教、教理や物語、問題や出来事など様々に訳し分けられ、その他に理性や理解力、理由や根拠など、聖書に現れるだけでも多様な訳が可能となっています。この言を私たちは聞き、見て、触れました。言うなれば「出会った」のです。
 
命の言なるキリストと私たちは出会いました。信徒の間で励まし導く役割を担っていると理解すべきでしょうが、このキリストの世界に入らないか、と呼びかける手紙のように見ることも不可能ではないかもしれません。信仰の初心者へも、君はすでに愛の内にあるのだと語り、信仰に入ることへの決断を説く意味で綴られているように見受けられます。
 
当時、教会の仲間に加わるということは、人生が180度換わる、大変な決断を必要としたものだったのではないでしょうか。今のようにちょっと礼拝に行ってみる、などというものではなくて、どこか秘密結社的な集まりで謎めいていたし、そこへ一度来たらメンバーとして秘密を守らないといけなくなるなど、拘束が働いたのではないかと思われます。
 
こうして手紙は、まだ十分な知がない状態で、運命共同体の仲間に入った者に教育をする手段となりうるのです。但し、ヨハネ教団は「信仰」ということを強調しません。福音書を含めて、世に打ち勝つことが信仰だとこの手紙の最後のほうで「信仰」について触れるほかは、「信じる」の動詞はあっても「信仰」の名詞が見当たりません。
 
さて、神は光である、とこの手紙も、福音書と共に繰り返しています。光の中を歩め、イエスの血の聖めに与るのだと告げます。けれどもその前提として、自分の罪を知るということを略すことはできません。罪を犯したことがないなどと口にするのは、神の言葉や愛の内から外れることだと厳しく説きます。罪の自覚なしに、救いはないのです。
 
手紙の書き手は言います。こうしたことを自分たちは、イエスから聞いたのだ、と。だからそれをあなたがたに伝えている。自分たちの出会ったイエスにあなたがたも出会うであろう。これらの言葉が記録され、それを通じて皆イエスと出会うのです。この愛の交わりの内へ、君も加わらないか。


Takapan
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