見下していませんでしたか

チア・シード

コリント一2:1-5   


何かしら優れた言い回しや説明が、福音を語り伝えるためにはどうしても必要なのでしょうか。私たちはふとそんなことを考えます。いや、違うよ、と建前で言うのは簡単ですが、現に「偉い」先生や神学部を出た人の「立派な」説明を、さも最高のもののようにほめそやしているのではありませんか。事柄そのものでなく、その人の肩書きによって。
 
ヤコブが警告しました。金持ちそうな人には教会で、さあさあこちらへ、とへつらいながら案内する一方で、貧しそうな人にはその辺に立っているか足元に座っていろ、などと言っていないか。それは揶揄のようにも読めますが、事実横行していたからこその記述ではないでしょうか。またそれは、決して経済だけの差別ではないとも考えられます。
 
私たちはどうして、聖書を、自分の至らないところをずばずば指摘する本として読むことができないのでしょう。他人のよくないところにはいくらでも当てはめるくせに。パウロがここで福音を説くのに自分は知恵を用いなかったと言っているのは、今なら知識というほうが分かりやすいでしょう。パウロは知識はいくらでもあったはずです。
 
なにせ律法のラビになれる逸材でありましたし、語学も豊か、才能に溢れ、いくらでも知識があったはずです。でも、隠された福音を明らかにするものはそんなものではない、とここで叫んでいます。十字架のキリストを見よ。これがすべてだ。パウロはそう言います。このキリストを除いた知識など、私には必要ない、福音には必要ない、と言うのです。
 
かつてコリント教会を訪ねたときの、弱った自分をパウロは思い出しています。心身共に弱かったときのことを今なお覚えており、あのときその弱い自分の上に神の力が働いて強められたこと、そこに神の力の真実を見出していたのだと告白しているように見受けられます。ひとが普通に言う知恵などとは異次元の、命救われた感動をそこに感じます。
 
よくぞコリントはその時、パウロの陰にある神を知り、信頼したものです。コリントの教会は、なにかと問題が多くやんちゃな教会であるように私たちはレッテルを貼っていないでしょうか。私はきっと違うと思います。現実の私たちの教会など、全くそれに及ばないのではないか。名の知れぬ弱いパウロを受け容れなどはしないような私たちは。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります