神の知恵は十字架の言葉

チア・シード

コリント一1:18-25   


この世の知恵と神の知恵。同じ知恵という言葉を使うので分かりづらいのですが、不思議なもので、私たちは通常これを混同したり読み外したりすることはありません。読解力の賜物です。すでに哲学では、ソフィアは重要な概念となっていました。知を愛するということが一語となり、フィロソフィアと呼ばれる営みが、日本語訳で「哲学」です。

パウロの頭の中に哲学への意識がどれほどあったのかは知れませんが、コリント教会へ宛てて説いているとなると、たとえばストア派のことも視野に入っていることは確実と思われます。十字架についてパウロは命を懸けて説きました。この知は、神の力となって人を救うことができます。ダイナミックなパワーがそこで注がれることでしょう。
 
知者はどこだ、とパウロは問いますが、これはソクラテスの行動を促した問いでした。ソクラテスほどの賢者はいないなどという神託を信用できず、探し続けたのですが、問えば問うほど、何も知っていないことを知っている自分のほうが対話で勝るのです。以前「無知の知」と覚えていたことは、「不知の自覚」と最近は呼ばれています。
 
パウロはこれとは違いますが、十字架という愚かな方法が逆説的に勝利する神の計画を確信していました。キリストはこの世の知からすると、とんでもなく愚かで無力なシンボルとなっていたかもしれませんが、そこには神のデュナミスが潜んでいました。少なくとも、パウロはそのようにひしひしと感じていたのでした。私たちはどうでしょうか。
 
十字架の言葉、それは十字架のロゴスです。十字架がどうして救いとなるのか、その秘密をもすべて含めた形での意味をもっています。単に表向き発された言葉ではないし、口先の論理のようなものでもありません。そこから豊かに髪の出来事が流れ起こってくる始源であり原理であり、そしてまた道であるのです。これが、神の知というものに他なりません。
 
イエスの酷い犠牲をパウロはどれほど痛々しく感じていたことでしょう。もしかするとイエスの死に直接関わっていたのではないか、とさえ私は思います。少なくともイエスを自分が殺したという自覚があったのではないかと思います。それをパウロは決して口にしませんが、復活のイエスと出会ったとき、己れの命が一度死んだことを知ったことでしょう。
 
神の知は、己れの死を自覚することの延長上にあると思います。それなしで神の知は迫りません。ギリシア人というのは外国人という意味なのでしょうが、哲学の知というものを踏まえて例に挙がっているように見えます。結局神の知こそが、呼び出された者に対して絶大な力をもつのです。十字架のロゴスが、神のソフィアとして私を包み込むのです。


Takapan
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