キリストの復活は信仰の事実である

チア・シード

コリント一15:12-28   


キリストの死と復活という信仰の中核を挙げたところで、パウロはその復活という問題に立ち止まります。この直前で、私たちが信じているキリストの死と復活の教義的な基準を明確にしたのでしたが、どうやらコリントの教会の中に、こうした復活を否定する人がいたようです。ちょっと考えると、そんなことがあるだろうかと信じがたい気がします。
 
しかし、いまもリベラルな神学の中には疑う神学者さえいるのですから、情報の行き来が少なく、都会のお洒落な教会であった当地では、それくらいの人の声が強くなってもおかしくはないだろうとも思えます。パウロはこれを説得しようと、秩序立てて説明を始めました。極めて論理的に語っているようですが、決してそうではありません。
 
しかし今やキリストは復活しました、と途中でパウロは突然キリストの復活を宣言したのです。それはどこに根拠づけられるのか、いくら読み直しても、分かりません。復活の教義を証明するのではなかったのでしょうか。そうです。ここでパウロは、死者の復活について論証しているだけです。キリストの復活の証明ではないのです。
 
キリストの復活があったからこそ、私たち人間の死者の復活もあるのだ。パウロが示したかったのは、この人間の復活のほうだったのです。キリストが復活したのは本当か、を考えているのではありません。キリストの復活は、もう信じられているのです。教義が確定しているのです。これなら、パウロが熱く語っていることも皆理解はできます。
 
カントは理論理性による認識制限が掛けられることを長々と論じた末、実践理性については、自由の想定を易々としてしまいました。道徳法則を私たちが知るが故に、自由はあるという前提に立てるとし、これを「理性の事実」と呼びました。それを理論的に証明することはアンチノミーに陥り不可能なのですが、実践理性においては事実と断ずるのです。
 
パウロも、キリストの復活そのものは、理論的に証明するべきものではないとしていますが、それはパウロが出会ったイエスの出来事により、パウロ自身は否定することができない事実です。つまりキリストの復活は、パウロにとり信仰の事実なのです。この事実は揺るぎません。自由を根拠に形而上学を築こうとしたカントのように、パウロは吠えます。
 
キリストにあってすべての人が活かされることになる。死は克服される。キリストが死を無効にし、支配してしまったからだ。こうして、神がすべてのすべてとなるのだとパウロは言います。キリストにあって死んだ人が実際いるということが躓きとなっていたのですが、もう安心してよいのです。パウロも使徒たちも、偽証などしてはいません。
 
信仰生活をする上で、このキリストの復活は要となっています。パウロにとりそれは、証明する対象ではありません。パウロはキリストと出会っているからです。現にキリストは、この私の胸の内に生きているではないか。これを否むことは、もはやパウロ以外の誰にもできることではないのです。この強烈な信仰は、もはや確かな事実なのです。


Takapan
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