異邦人

チア・シード

コリント一12:1-3   


まだ異邦人だったときのことを思い出させる書き方をパウロはしています。ということは、もういまコリント教会の人たちは、異邦人ではないわけです。これは、元来がユダヤ人ではなかったことを暴露すると共に、「異邦人」というのは、そうでなくなるときがくることを表しています。これは非常に大切な押さえどころであると思います。
 
確かに、訳語としては「異邦人」としなければならないのかもしれません。それは仕方がありません。けれども私たちにしてもたとえば「ガイジン」と人を呼ぶことがあります。そこには、自分とは本来別種の人間で無関係の者、関わりたくないような者という空気を醸し出すものがると言えます。「異邦人」もこれに近いのではないでしょうか。
 
但し、そこはイスラエル文化です。自分たちと関係がないという意味は、そのまま、神と関係がないという意味にスライドできます。異邦人とは、神との関係を結んでいない人だ、という捉え方が、実像にかなり近いのではないかと思われます。だから、神との関係をまだ結んでいない人に、神との関係をつなぐ福音を伝える必要があるということになります。
 
パウロは、コリントの人々に、実に口やかましく、あれこれとここに至るまで述べてきましたが、元々神とのつながりのない文化の中にいた人たちですから、同じ文化の中にいる者の間では一般によく前提されているように、言わなくても分かるだろうというふうにはゆかなかったのです。一から始めて、丁寧に説明してやらねばならなかったのです。
 
ぼろかすに非難さえしながらも、彼らのことを投げ捨てはしない。元々神を知らなかったのだから、暗黙の了解などできるはずがない。ユダヤ人ならば当然身を以て知っていることも、神との交わりの文化が身についていないのだから、手取り足取り教えなければ分からないのです。それが分かっているから、パウロは決して彼らを見捨てることはありません。
 
神との関係の中にある君たちだから、もうかつての自分たちとは質的に異なっているのだよ。パウロは繰り返しそのようなメッセージを告げます。イエスは主である、と君たちは口にするではないか。それでいいんだ。ユダヤ人たちが口にするのとは趣が違うかもしれない。スピリットが違うかもしれない。でも、確かに口にしている、それでよいのだ。
 
だとすると、それは神の霊により導かれたものであって、神の命に生かされていると認めて構わないとパウロは考えています。神とのつながりの内にあることが確実ならば、神に生かされているはずなのです。そう、私たちもまた、そのような者として招かれて、ここに立っているのです。手を焼く存在であるにしても、確かに神の霊に生かされているのです。


Takapan
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