どちらも叶えよう

チア・シード

コリント一9:19-27   


人を救うためなら、自分の好みやポリシーさえもこだわることがない。パウロのなかでのプライオリティは、人の救いにあるのだ、ということです。ユダヤ人のようになる、というのは奇妙なスタートです。パウロ自身、ユダヤ人なのですから。しかし、テモテに割礼を受けさせたことが頭にあるか、指摘されたのかもしれません。
 
この後すぐに律法について触れているので、きっとパウロはテモテの件を気にしていたのだと思います。この律法ということに、思いのほか長く触れ続けているわけで、恐らくこの問題がパウロにとり大きなことであり、弁明しなくてはならなかった事態なのだろうと推測されます。異邦社会にも、律法は大切な事項であったことが窺えます。
 
弱い人というのは、コリントの偶像に献げられた肉を気にしすぎる人のことを言っているように見えますが、この割礼の問題も関わっていたのではないかと思われます。今でこそ、未信の人の気持ちになろうとか、そこへ宣教するために必要なテクニックだとか言われますが、ここはパウロの切なる自己弁護であったのではないでしょうか。
 
すべての人を救いたい。少なくとも福音を伝えることならばできるでしょう。これが最優先となる故に、すべての人の奴隷になるのだ、と言っているわけです。パウロは、この前提の故に自分はどうでもよい、などとは考えていません。人々の救いを第一とするということは、自分のプライズのために走っているのでもある、ということも宣言します。
 
少しばかり矛盾したかのように見えるかもしれませんが、パウロの中では少しも食い違うことはありません。ユダヤ人のようになるというのは、人にどこか寄り添うことでもありながら、相手に合わせて自分をいいかげんに扱うという意味にはならないのです。自ら永遠の命を求めるが故に、パウロは人々に救いの道を示しそこに導くのです。
 
パウロはそれが自分の使命だと強烈に捉えています。このために節制に徹します。節制なしには走れないのですから。人の救いと自分の救い。これらはどちらもプライオリティを持っています。どちらかひとつを選ぶことにはなりません。次元が異なる目的だと考えておけば、どちらも叶えようとすべき、大切な目的であるはずなのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります