主の信任と神の霊

チア・シード

コリント一7:25-40   


現状維持。パウロがコリント教会に、結婚に関することについて述べる原則はこれに尽きます。少し前にも結婚について語ってから、割礼や奴隷の身分についても、そのままがよいと述べた上で、再び結婚問題に戻って、また長々と書き連ねています。問題を多く抱えたコリント教会に対して、かなりカッカきていたパウロですから、筆もやや落ち着きがありません。
 
現状維持の理由は、時が迫っているからです。今危機が迫っている状態だからです。すでに定められた時が迫っています。パウロの表現は、時が縮められてしまっている、というような言葉で、より切迫感が伝わってくるように感じます。そんな時に、のんびりと新しい長期的計画を構えるゆとりはありません。あまりじたばた変えないほうがよいというのです。
 
コリント教会に結婚に関するトラブルがあったことは、すでに述べられていることからも分かります。でもここでは、明らかに終末意識が高いことが伝わります。長い手紙ですので、一日で全部語り記述するのは難しいでしょう。その時の気分によりムラがあることも理解できます。パウロを心理学的に分析しようとは思いませんが、そこは人間パウロです。
 
自分は「主の指示を受けてはいませんが」と断っています。「命令」とよいくらいのものですが、このようなパウロの手紙をいまの私たちは、神の言葉として受け止めるのが一般的です。聖書信仰、福音信仰と呼ばれるとき、聖書は誤り無き神の言葉とするものですが、その書簡が、主の命じたものではないというのは、一種のパラドクスです。
 
私たちは、時に聖書をすら偶像化することがあります。誤り無きという人間の思想はまさに論理的数学的な真偽問題と思い込んでしまいますが、聖書は写本自体無数にあります。当然食い違いも生じます。その意味では誤りはあることになります。また、自分の解釈を絶対無二のものとするのも、実は聖書でなく自分の思想を神とすることになります。このときには、聖書ばかりでなく、自分をも偶像にしていることになりますが、気づかないものです。
 
人の論理のほうを根拠として聖書を理解してしまう危険性が、実はあるということを弁えておくことは大切です。聖書は正しいと信じているから聖書によると云々、と語り始めるとき、どこからかすり替えが起こっている場合があるのです。これと、聖書から神の言葉を聞くということとは、全く逆のことであるでしょうから、難しいものです。
 
パウロは「主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます」と記しています。私たちもこのようでありたいものです。主の信を得ていること、実はクリスチャンとはそういう人のことを言うはずです。イエス・キリストが私を信頼している、この事実を主に向き合って全身全霊で受け止めた者こそが、クリスチャンであるのではないでしょうか。
 
しかし、人間の方が実は主を従えて、主との信頼関係を蔑ろにしてしまうことが、とくに現代人には多いのではないかと危惧します。申し訳ないのですが、結婚についてのここでのパウロは、特に追究するほどの魅力はありません。しかし「神の霊を受けている」と自らを語るパウロとは、同じ仲間でいたいものだと切に思います。

Takapan
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