いまの時代への福音

チア・シード

コリント一7:17-24   


割礼の有無は問題ではない。パウロが熱く語ることは、いま私たちにとってどのように受け止めればよいことなのでしょうか。考えどころです。昔話でよいのでしょうか。いえ、何かしら私たちに向けてのメッセージとなりうるはずなのです。しかし残念ながら割礼そのものは私たちにとり殆ど意味のないことなっています。
 
キリストの弟子たちは、多くがまずはユダヤ教徒でありました。そもそも当時はキリスト教徒が別にあるわけではありませんでした。ユダヤ教の一派だったのです。あるいは、当事者たちは、真のユダヤ教だと考えていたはずです。つまり当然視されていたユダヤ教の習慣を取り払って、新しいユダヤ教への踏み出すための、パウロの叫びだったのです。
 
ユダヤ教の習慣を止めて、キリスト教らしくしよう、というわけではないのです。となれば、いま私たちが、キリスト教の内部で当然すべきとされていることが、実は問題ではなく、大切なことは神のことばに浸ることだとするように理解するべき事柄であるはずです。それでこの「割礼」はしばしば「洗礼」と読み替える試みがなされます。
 
洗礼の有無が救いの条件ではない。それはそれで大切な主張です。信仰によって義とされるというのなら、尤もかもしれません。教会で定めた儀式で救われるのではないからです。しかし牧師経験のあるある神学者は、教会を重視しますから、それはとんでもない思想だと非難します。教会を蔑ろにしてキリスト教はないのだ、と手厳しく断じます。
 
割礼を洗礼そのものと置き換えて読むことは、確かに控えねばなりません。同じではないからです。しかし、比較する価値はあろうかと私は考えます。ここからまた、新しい洗礼観や洗礼の理解が始まり、また新たに対応していくことが考えられてもよいのではないかと考えます。もちろん、聖書の理解を深める中で、やるべきだと思います。
 
また、パウロがここに限らず、奴隷制度を容認しているという批判もあります。パウロの限界だなどとも言われますが、いま私たちのもつ価値観で測ってよいとは私は思いません。社会制度はどうしようもないのです。また、私たちの見解が絶対の真理とは限らないのです。パウロの置かれた情況の中で良い知らせを伝えていればよいのではないか、と。
 
いま、企業の中でも、官僚組織の中でも、ひとは奴隷になっているとは言えないでしょうか。逃れられない学校カーストの中で奴隷の思いをしている子もいます。そういう社会構造から自由の身になれる、とキリスト教は保証などでぎません。でも、そのままでも、自由になれるという福音を、キリスト教は信じるよう伝えることはできると思うのです。


Takapan
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