外野からの野次

チア・シード

コリント一6:12-20   


ルターの『キリスト者の自由』の考え方は、今なお誰もそれを否むことがありません。キリストの弟子たる者は自由なのだと高らかに宣言します。望ましからざることの奴隷となることがありません。しかしまた、キリストの僕として神に仕え、また人を愛するために仕えることを語る思うなら、徹底して奴隷となっている、というのです。
 
政府への適切な批判は必要です。しかし対案もなく、また自ら何か貢献することもないのに、徒に悪口や皮肉をぶつけ、恰も国民皆が反対しているかのように言い放つばかりというのはどうでしょう。これはむしろ悪しきものに支配されていると見て然るべきではないでしょうか。反対することで自分が常に正義であるかのように思い込んでいるのです。
 
コリント教会の人たちは、パウロの目から見たここでの叙述を見る限り、どうしてこんな明らかな愚かさに気づかないのだろう、と私たちはいつしか見下すようになっているかもしれません。だが、そういうものなのです。私たちも自分の愚かさに気づいていません。ただ、気づかない構造というものがある、それを弁えているのがキリスト者というものなのです。
 
「知らないのですか」とパウロがコリントに向けた言葉は、私たちが言われていることです。もしこのような読み方を忘れていたとしたら、私たちもまたこのコリント教会と全く同じです。いえむしろ、これだけ教訓が示されているのに、なおそれを他人事として自らを誇るばかりになっているだけに、余計に愚かであるということになってしまいます。
 
代価を払って買い取られたのではないか。君たちの思いを反映する行動により、神の栄光、つまり神の言葉が現実化するという物語を、私たちの置かれた今ここで示してごらん。そう言われているように聞こえて仕方がありません。正義の味方気取りで、外野から野次を飛ばすだけのような者は、キリストの弟子には相応しくないのです。


Takapan
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