自分で王を詐称している

チア・シード

コリント一4:6-13   


「私たちは神の協力者、あなたがたは神の畑、神の建物」(3:9)なのだという構図を掲げ、パウロは、コリント教会の人々から信用されていないような自分たちの立場をはっきりさせます。「キリストに仕える者、神の秘義の管理者」(4:1)と見なされて然るべきなのだ、と言うのです。もしパウロたちがダメな者であても、それを決めるのは主であるはず。
 
だからコリントの人々よ、高ぶってはいけない。パウロは、傲慢な思いに警告を与えています。あなたがたは「王になっています」とは、なんと厳しい言葉でしょうか。自分が法をつくり、自分がそれに応じて人を裁くのです。自分の考えが世の標準であり、他者も従うべきだとするのです。私たちの日常の判断は、そういう法則によって動いています。
 
勝手に王になっている。それは、私たちにも突きつけられています。ドキリとする指摘です。自分の目に見えるところに従って、他人のあれがいけない、これが間違っている、と決めつけます。「すでに満腹し、すでに富んでいます」とは、自分の思いを完全としている姿勢のことです。これに対してパウロは、ある意味でもう反論ができません。
 
それを抑えつける力はパウロにはありません。むしろパウロは下に出ます。「私たち使徒」は「見せ物」程度です。「愚かな者」となったのであり、弱くなったのです。「誉れなき者」として、この世で低い者、貧しい者として生きています。どんな侮辱を浴びても、ただ祝福を返すだけ。迫害に対しても、まずは耐えることしかできません。
 
いくら罵られても反論に出ることはなく、むしろこの福音を信じませんか、と持ちかけます。全く人の好い、弱者の性質を露呈させています。人間は、いわば死刑囚。死を待つ存在であるとすると、ある意味で惨めな立場に置かれているような者です。それに対してあなたがたは、自らを王として、賢く強く振舞い、栄光を自称して高ぶっています。
 
さて、それはコリント教会という、古の遠い地方の話なのでしょうか。今の私たちの姿だと気づかないでしょうか。「それはあなたです」(サムエル下12:7)とナタンがダビデ王に突きつけた言葉を、私たちも受けなければなりません。「世の屑、あらゆる者の滓」だとされていると自覚しているパウロをこそ、神が高くしてくださるのではないのでしょうか。


Takapan
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