惨めなパウロ

チア・シード

コリント一4:1-5   


コリント教会が分断されようとしていることを止めたい。パウロは必死でした。殊に福音理解が間違っている中で収拾がつかなくなっているのは残念なことです。そこへ楔を入れようとします。しかし指導者であるはずのパウロに矛先を向けてくるようになると、さらに深刻です。
 
人は人に過ぎませんが、キリストにあって使命を受けています。パウロはコリント教会を建て、それを守る使命を帯びていました。しかし、コリント教会に君臨しようと考えていたわけではありません。むしろパウロは管理者です。主人は神にほかなりません。パウロが神のように見られてはならないし、他の人間を神とすることもできません。この流れの中で言葉を受け取っていかないと、人の考えは自分を中心に暴走する性癖を有っています。
 
パウロは裁くことはしないと言います。義なのか罪なのかを決めるのは神ひとりです。それは、つねに人間たる私の外からなされます。コリント教会の一部の面々から悪口を言われていることがパウロには分かっています。それは構わないのです。パウロがその悪評によって神から審かれるわけではないからです。でも、だからと言って自分で自分を義であるとすることもできません。主が再び来られる時、決着がつくだけのことです。
 
その時、パウロは主から褒められることを確信しています。この希望は間違ってはいないでしょう。但し、それは決定項ではないはずです。そこに微妙なバランスがあります。今でこそパウロと言えば偉大な伝道者と評されていますが、当時は評判がよくありませんでした。アポロの人気をどこか羨んでいたかもしれません。しかし、自分が福音を伝えているのだという点だけは強く自覚していたことでしょう。
 
「神の秘められた計画」と長い言葉で訳すのは、新共同訳の訳出のひとつの方針から来るものだと推測されますが、要するにこれは「ミステリー」の語です。奥義であり、謎のことです。しかし間違いなく、それは福音です。私たちは、パウロが不安を抱えつつ執筆しているという姿をもっと理解しなければならないと思います。堂々と、パウロ先生として書いているのとは違うのです。
 
エルサレム教会からは異端視され、アジアに教会をつくってもそこは乱れるし、律法主義に惑わされているし、ギリシアの教会からは散々な攻撃を受けています。実に惨めな伝道者です。その中で自分は神の前に揺るぎなき信頼を以て、このように手紙を綴ります。その福音を語ります。そう思うと、私はもちろんパウロに比すようなところは何もありませんが、私のしていることは決してパウロの営みと遠いところにあるものではないと慰められるのです。


Takapan
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