土台なき教会

チア・シード

コリント一3:10-17   


砂の上に家を建てても、水に流されてしまうでしょう。当時の建築工法については私は知識がありません。石を積むというのはあったはず。そのとき土台がしっかりしていなければ、安定しないであろうことは容易に予想されます。キリストが隅の頭石になったという語が伝わっていた環境からしても、家の土台という考え方は誰にも分かるものであったと思われます。
 
パウロは、自分がコリント教会に対して労苦してきたことは、この土台づくりであったことを明らかにします。教会が、分裂しそうだったからです。そこに派閥ができました。リーダーたる者を、それぞれのグループのお気に入りの形で選び、キリストすらそのうちの一人に数えられるというふうに成り下がりました。否、キリスト以外の人物が崇められるようになったと言うべきかもしれません。
 
パウロもその一人とされそうになったので、パウロは極めて不本意に思っています。パウロは土台を示しただけでした。土台とはキリストでした。その上にあなたがたが、それぞれに建てられたのです。神の宮、神住むところとしてのあなたがたであることを知りなさい。火の試練があろうと土台があれば揺るぎません。体が殺されても拠って立つところが変わることはないはずです。
 
このときあなたがたは、聖なるものとされています。神に選ばれ、特別なものとして大切にされています。私たちに、このような信仰があるでしょうか。人気比べのような中で、仲良し倶楽部を演じているようなことはないでしょうか。こうした注意は、過去のもの、自分とは無関係のものとして見下すようなことがあってはなりません。
 
私の目から見ると、いまも横行していると言えます。かつてもそうでしたが、有名な先生についていく信徒。好みの先生を囲んでグループができ、その先生の言うことは何でも肯定する。先生の一味であることを誇りに思い、こうしてグループごとの対立構図もできる。SNSの発展により、さらに容易に、バーチャル空間の中に遠距離であってもできていきます。
 
名の知れた人の発言はどんどん気軽に支持され、発言の内容などもはやどうでもよいものとなります。その人の言うことはすべて持ち上げ、人々は物事それ自体を深く考えたり、自分自身を省みたりしなくなっていきます。土台の上に藁の家ならまだよいのであって、パウロは土台が消えることを恐れていました。それはいまの私たちの姿だと捉えてはいけないでしょうか。


Takapan
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