コリント教会はだめな教会なのか

チア・シード

コリント一1:10-15   


むずがゆいような挨拶を終えると、パウロは早速本題に入ります。コリント教会への苦言があふれ出すのです。まずは分派騒ぎです。このダメージは大きいとパウロは考えているのでしょう。教会が教会として成り立つために、根底が定まらないと何もできないからです。教会は一体誰を中心に置いているのでしょう。土台が狂えば、もはや建物は建ちません。
 
パウロは主イエス・キリストの名を中央にすべしと宣言します。しかしめいめい好き勝手な主張をして、一つになっていないのではないかと指摘します。意見の対立だけならまだしも、分派となると、崩壊への道となるからです。パウロがここに描いている通りだったとすると、コリント教会はまことにお粗末な教会であったようにしか見えません。
 
手紙ではこの後、結婚問題や偶像に捧げた肉などについて細かく言及します。確かに情けない有様であったというのは本当なのでしょう。けれども手紙の冒頭の挨拶ではあまりの褒めようです。浮いてしまっています。となると、パウロはもしかするとどこか大袈裟に非難して言っているのかもしれない、とも考えました。
 
つまり、私たちがこれを真に受けて、コリント教会は酷いところだ、と蔑むような眼差しを向けるとすれば、そこに罠があるということになります。コリント教会を見下して、私たちはまともだと自負する危険性を知るべしということです。むしろ、これは今の私たちの教会の姿だと捉えたほうが、適切な読み方だと言えるような気がしてならないのです。
 
キリストが幾つにも分けられてしまったとでもいうのか。それほどに教義の差や儀式の仕方で背を向け合い、交わろうともしない。恐らく信徒どうしは、へぇ違うんだね、と笑い合えるような間柄でいられるようなところを、指導者や責任者たちが、礼拝を共にできないとか、教義が納得できないとか、反発しているという図式が生じていないでしょうか。
 
相手の捉え方が間違っているのだ、と自分の教会の説教で語り、あれは違う、許せないとまで信徒に植え付ける。そうしてそちらへ出て行かないように囲むかのように。一体、コリント教会どころでの騒ぎではありません。少なくとも、歴史上の教会は、そのようにして歩んできたと見てもよいのではないかと思うのです。
 
コリント教会では、人を殺したというふうには書かれてありません。ハラスメントや性暴力が横行したようには見えません。金を横領したような気配もありません。パウロも誰も、そんな非難はしていないのです。金銭欲に支配された指導者の姿も見えてきません。現代の教会の中には、そんなことは幾らもあるのに、です。ファリサイ派を見下すのと同様、私たちは何か間違っているのです。

Takapan
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