人は必ず死ぬのか

チア・シード

コリント一15:50-58   


死者の復活の確かさをなんとか伝えようとしてきたパウロでした。復活のメカニズムやその的確さについてはここまでずっと熱く語ってきたのでしたが、それを踏まえて、あなたたちに向けて語ります。「私はこう言いたい」というのは、「あなたたち」に向かって言おうとしているのです。つまり、私に向けて言いたいということなのです。
 
ここにミステリーを明かします。秘められていた真理を告げるというのです。すべての人が死を経験するのではありません。パウロは神の代弁者として、はっきりそう言いました。ところが私たちの世界ではどうでしょう。これを余りにも無視した言動が多すぎないでしょうか。幾多の説教の中で、人は必ず死にます、死亡率100%です、などと軽々しく言う。
 
しかしパウロはそうは言っていません。もちろん、私こそ死なない者だ、などと誇らしげに言うことは、私たちのうち誰もできないでしょう。でも皆が眠りに就くわけではない、とパウロは、つまり私たちの信仰告白する上で言えば聖書は、すなわち神は、はっきり言っているのです。これを無視するのでは、聖書を信じないのか、と言われても仕方がありません。
 
第一、再臨により世が終わるのであるなら、その日まで生きていた者は死を経験しないのではないでしょうか。人は必ず死ぬ、と教える者は、主の日が来ることを信じておらず、否定してしまっていることになりはしないでしょうか。ラッパの鳴り響くところ、死は勝利せず、朽ちないものに私たちは変えられると聖書は宣言しているのです。
 
この言葉をどう聞くか、それが私と神との関係の問題です。死ぬべき人間という存在が、死なないものを着せられるのです。律法が罪をもたらし、死へと導くものであるとしたら、イエス・キリストは死への勝利をもたらすのです。パウロは「さあ、信じなさい」というような言い方をしませんでした。ただ、神との和解を求めました。
 
しっかり立って動じるな。何の力がはたらいても動かされるなと言いました。そして、むしろ主の業に励むようにと呼びかけます。その労苦にはちゃんと意味があるというのです。コリント教会は乱れた教会でした。パウロは手を焼きました。そうした教会を建て直そうとするパウロの思いは、いまの私たちに強い確信を、与え得たでしょうか。


Takapan
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