復活の論証とは

チア・シード

コリント一15:20-26   


復活がないとならば、すべては絶望の縁へ追い込まれてしまう。パウロはこの章で復活の存在を証明しているかのように見られていますが、私たち現代人の思い浮かべる論証というものからすれば、証明とは程遠い話で、復活の証拠があるぞなどと期待すると、すっかり期待はずれに終わってしまうことでしょう。
 
文化も歴史も異なる環境での理解というものは、互いの思惑を一度外れて対話をしなければ、とても噛み合うものではありません。だからパウロの説明は無意味なのだ、そう思う事がいるかもしれませんが、そんなことはすべきではありません。パウロは「しかし」と強くもちかけて、キリストは事実復活したのだ、というところからスタートします。
 
キリストは復活の最初。それによりすべての死者の復活を可能とした。つまりここでの復活の論証は、キリストの復活ではなくて、私たち人間の復活のことを指しているわけです。アダムが死をこの世界にもたらしたのなら、キリストは生をもたらすことになる。極なるものが互いに存在することを対照させているようにも見受けられます。
 
そもそもアダムなるものを認めるかどうか、そこから私たちは押さえていく必要があるのですが、まずはパウロの声を聞くに留めましょう。初めがキリスト、これはもう復活しました。次に、キリストが再び来るときとなりますが、キリスト者が復活するのです。そこから世の終わりが来ます。このような流れ、あるいは順序があると言います。
 
こうすると、キリストはその支配を、父なる神にすべて譲渡する形になるというのです。この世の全ての権威は無効化されるという点にも注目しましょう。世の帝国も、人間のあらゆる支配も、消えてなくなってしまうのです。コリントでもそうですが、キリストを信じキリストの再臨を待つ人々が、解放を期待しています。
 
政治的に圧されて苦しんでいます。この世の肉なる人間が、神を拝する者たちを不当に苦しめています。しかし、それはついに救われ、立場が逆転する時がくる。それが成し遂げられるのだ、ということについて言及しています。キリストの力は、この段階で大いに発揮されるのであり、ただ単に神が突如現れるのではなくて、キリストがつなぐのです。
 
この営みの中での最終段階は、死という敵であるとパウロは捉えます。しかしキリストの復活があるからこそ、その死が無効となることが私たちに分かるようになりました。復活は私たちにも起こるとパウロは確信しています。死はもう失効するのです。ここには現代の私たちの論理を超えた希望があります。まずはそれを感じとりましょう。


Takapan
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