異言と預言

チア・シード

コリント一14:20-25   


異言自体、明白に分かっているとは言えません。これをある一つのものに決定づけて強調するグループがありますが、私は与しません。しかし他方、すべてを否定するのも極端でしょう。何か言えるとすれば、ここで異言が、預言と対比されているということくらいです。それも中途から推測になっていきます。
 
悪については赤子のように知恵の回らぬ者であれとパウロは言いました。けれどもひとたび物事を判断するとなると、子どもじみた考え方を通すような真似はするべきではないとします。コリント教会の中でまかり通っている理屈が、屁理屈であると断じているのでしょう。
 
そして愛のない異言が自己本位なものになってしまうと警告し、預言は教会を愛あるものへと、キリストの体として成長させるはずだと言い、異言を誇ることを批判します。パウロはここで、伝道の場面を描いてそのことを説明します。未信の人が教会に加わったとき、ここにいる人は気が変になっていると思わせるのではないか、というのです。
 
他方、落ち着いた諭しがそこにあれば、自らの非を認識し、罪を自覚するかもしれません。そして、ここに神が在すことを否応なく思い知らされるであろうという筋書きを呈します。これは救いの第一歩です。「教会へ来て間もない人」と新共同訳は訳していますが、時折やたら説明を長くして訳すことがあるので気をつけたいものです。「教会」などという語はここにはありません。フランシスコ会訳も「賜物を受けていない人」と解釈を前面に出しています。これはただ「不案内な人」を表している語に過ぎません。
 
この脈絡の中で22節が、古来物議を醸しています。「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」というのですが、筋が通らないのです。フランシスコ会訳はここで大胆な手入れをします。これは反語的な疑問文だとするのです。「異言は未信の人のしるしだろうか、そんなことはないはずだ。預言は信じる者のためだけのしるしだろうか、そんなことはない」という理解を示しています。確かに無理なく文章が流れていきます。
 
しかし二千年近くにわたり、写本家も修正を加えるようなことなく放置しているからには、何かしら納得して読んでいたというのも間違いないでしょう。主旨は揺るぎません。異言を初心者に聞かせるものではない、ということです。預言ならば誰にでも伝わるから推奨する。自己中心でない語りをすべきなのです。そもそも異言と預言の明確な区別も私たちは所有していませんから、ますます判断がつきにくくなります。
 
それにしても、これは他人事ではありません。私たちは、いわゆる「教会用語」を当然のことのように使っています。「伝道集会」などと言いながら、その「伝道」自体が教会用語です。俺たちだけが知っている道をおまえにも伝えてやるぞ、という高飛車な響きもそこに感じられ得るものです。世間で通じない語や言葉は、確かにここでいう「異言」にほかなりません。むしろ「預言」とは何か、私たちはもっと真剣に問い直す必要があるように思えてなりません。


Takapan
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