異言する教会はどこに

チア・シード

コリント一14:13-19   


この直前で、異言で、あるいは預言で語ることの対比がありました。続いてここでは、語ることへと収束はするものの、さしあたり祈ることや賛美することへと関心が向かいます。このとき、霊と理性が対比されるようになりますから、パウロが、異言を霊によるもの、預言を理性によるものと位置づけていることは確実です。
 
異言とは何か、という話題に私たちの好奇心はどうしても囚われます。この日本語がまた独特の連想を促すかもしれず、原語は「舌」を表しているに過ぎません。もちろん英語のtongueのように、同じ語が言語や言葉を意味するようにも使われるため、ペンテコステの出来事の時のように外国語を事実上指している場合もあることになります。
 
あれはその国の人には神の大きなる業を語っていると分かったのですから、理解はできたわけです。しかしパウロがそのような意味で用いているかどうかは分かりません。パウロは、霊的なものであり、他人に伝わらないということを決めつけていますから、特別な個人的な神との間で成り立つ出来事に登場する声や呻き、祈りのようなものなのかもしれません。
 
他の人はそれにアーメンとは言えません。教会を共に造り上げるのに役立ちもしません。共同体においては、一万のこの舌が祈りに用いられ口から発されたとしても意味がなく、皆に伝わるその心に理解できるものとして届く5つの言葉のほうが相応しいのだといいます。教会が5つのスローガンを掲げるというのは案外よい目標なのでしょう。
 
パウロはここらで、しきりに初心者を問題にしています。信者でない者や信仰をもって間もない初心者に分からないというデメリットを主張しています。私たちは思います。教会用語、仲間内だけで通じる言葉を使っている自分たちの姿を。兄弟姉妹とか恵みとか感謝ですとか、教会でのみ使う言葉はまるで隠語のように、新しい他の人を排除しています。
 
それはまるで異言です。気づくのは、パウロが異言ということを話題にするのは、コリント教会だけだということ。他の手紙には一切この話題は触れられません。コリント教会にのみ唯一異言が語られ、そんな能力のある人がそこだけにいたのでしょうか。度々送られた書簡を見る限り、そんなにすばらしい体験に満ち満ちた教会のようには感じられません。
 
これは、コリント教会だけに示す言い回しです。コリントにおける思い上がりのようなことについて戒めるために、パウロなりの仕方で皮肉めいた言い方をしているのではないでしょうか。いまの私たちのキリスト教界でも分裂するなどしつつ、他人には分からない用語を振りまいています。ちゃんと分かる言葉で福音を語れと言われていないでしょうか。


Takapan
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