異言と預言をシンプルに理解しよう

チア・シード

コリント一14:1-12   


異言とはどういう現象か。これまで人々の関心は、そこに向かっていたように見えます。好奇心のなせる業かもしれませんが、別の道もあるのではないでしょうか。ここでパウロは、異言と預言を比較対照しており、どちらも「語る」という範疇での出来事として理解しています。異言という現象を問題にしているのではないわけです。
 
異言は神に向かって語るものです。預言は人に向かって語るものです。問題はここです。神に向けて語る異言、それはほかの人には分からないことがあるといいます。それはいいと思います。祈りは自分と神との関係の中の出来事です。ただ呻くだけのこともあるし、形にする前から神は心をご存じだというのは、そういうことを含んでいるとも思えます。
 
しかし個人と神との間の祈りそのものは、自分と神との関係つまり信頼関係を造り上げはしますが、人と人とのつながりという教会を形成することはしません。教会とは呼び集められた共同体です。これを造り上げていくには、互いの信頼が必要ですし、そのためにはコミュニケーションが成立していなければなりません。
 
異言は、他人に理解できないような、神との特別な関係の中での出来事ですから、他人に考えを分かってもらえるようなメディアとはなれません。他人にはたらきかけるものではないからです。人間の集まりは、バベルの塔以来混乱しています。人間の欲を目的とした言語利用は制限されたのです。それはいつか主の日に解消されることは期待できます。
 
しかしいまはここで主の僕としての共同体を造り協同して神の国の実現へ向けて信仰や宣教の生活をしていくためには、与えられた別々の言語を駆使して、互いに伝え合うことが必要になります。呼び集められた者たちは、キリストの体の一部です。小さな体です。生物的に言えば一組織です。組織はその狭い言語で活動が賄えると思います。
 
世界中の言語はばらばらにされたとしても、身近にあるこの私たちは同じ言語を通じ合わせていくことが可能です。異言のミステリーはさしあたりそこでは抑えましょう。分かる言語で語り、伝える。それにより励まされ、教えられ、理解できるメッセージで共通理解を図る。人間同士のコミュニケーションが成立し、横のつながりができるでしょう。
 
キリストの体の中では、ほんの一部の小さな組織にすぎません。でも一定の役割を果たす教会ができるでしょう。教会とはこうあらねばならぬなどという偏見は、人間の高慢から来ます。それぞれの違いを認める預言が、むしろ言語間の通訳によって別の組織との交流を可能にし、救いの輪を拡げます。もちろん、点字や手話もその言語のひとつです。


Takapan
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