霊批判

チア・シード

コリント一12:8-11   


同じ一つの霊が働いて、一人ひとりに様々な形で分け与えられ、力を発揮し現れる。ここでパウロが告げているのは、そういうことであり、それだけのことです。それらが次々と並べられ、教会にいるいろいろ異なった役割を果たす人をそれぞれ支援する効果もあったことでしょう。思いつくままに、パウロはその力を伝えます。
 
知恵と知識の言葉が与えられる。知恵は時に神そのものであるかのようにも振る舞い、言動すべてに影響を及ぼします。知識も軽んじることはできません。信仰というと、信者ならば誰もがもつはずのものですが、多くの人を励ますような信仰を示し、呼びかけるような人は、やはり教会の中にいて、ありがたい存在であるということがあります。
 
癒しや奇蹟、これは分かりやすい。預言や異言というものも、まさに霊がもたらす力として顕著であると理解できます。実に一つの霊が、それぞれに力を与えてくれるものです。別々の霊でなく、同じ一つの霊が及んで、神がこの者にはこのような力を表してもらおうと望むそのままに、人により異なった力として現れてくるというふうにパウロは説明します。
 
かつて近代哲学は、神という原理からでなく人間の能力を説明する課題を与えられました。デカルトは認識の原理として我があること、そして思惟する実体としての心を確立しました。が、物体は延長をもつ実体としてそれと区別するに至ると、自分の身体というものについて困難が起こりました。心と体はどうつながり統一されているのか。
 
このように、一つひとつの能力や性質を説明はするものの、それらの関係や統一する機能については、思想的な困難が起こったり困難が生じたりして、論争となりました。そこへ、認識能力としての理性自身をよく調べようと、画期的な視点をもたらした哲学者がいました。カントは理性自らが理性を吟味する作業を「批判」と呼びました。適切に検討することです。
 
物体がありそれがどう人間に認識されるか、とかつては暗黙の前提としていたものを、カントは、人間は人間の理性に備わる一定のスタイルで物体をそのようなものとして認識しているに過ぎず、物体そのものを把握しているのではない、と考えました。理性を対象全部を認識することを諦める代わりに、理性の及ばぬものの存在の領域を残すことにもなりました。
 
理性自身を理性が吟味する。これをカント哲学では「超越論的」と呼びました。パウロがなにもそのような超越論的な構造を意識していたとは思えませんが、この霊の力が居並ぶ中に、「霊を見分ける力」が忍び込んでいるところに、私は今日超越論的な構造を感じた、という点をご紹介しようと思いました。この力だけが、少し異質なのです。
 
霊が、霊を見分ける力を与えるということは、適切な良い霊であるか悪い霊であるかをきっぱりと区別することができるということです。原語では「霊の批判」と、まさにカントの「批判」の語源が関係してきています。霊自らを吟味する霊の効果がここに数えられていたと思います。私たちは悪霊に気づくことが、確かにできるはずなのです。


Takapan
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