誰もが同じ霊に生かされている

チア・シード

コリント一12:4-11   


ふとある言葉が頭に入ってきたら、それを立て続けに口にする。パウロがこの章で使い回すのが、「一つ」です。私たちは一つの中でつながっているではないか、そう叫びたいように見えます。イエスは主である、という告白の下にさえあれば、私たちは一つになれると言います。いえ、もうすでに一つになっていると言ってよいのです。
 
主の晩餐にしても、バラバラに飲み食いしていると聞いてパウロは腹立たしく思いました。神の霊は、私たちを一つにしようとしているはずです。霊は一つ。その同じ一つの霊に対して私たちは、様々な賜物を受け、それぞれの務めを知り、主に仕えています。一人ひとりのいろいろな働きがそこから生じています。いまそれを逐一挙げませんが。
 
一から多が出るのは如何にしてか。哲学的問題も生じるかもしれません。でもそういう思弁的な要素はパウロになかったことでしょう。同じ一つの霊の働きが、私たち一人ひとりに分け与えられている事実。霊がそれを望み、その望みのままに分け与えられています。私たちはこの神の霊により生かされているのです。
 
パウロは神学の論理をここで講義しているわけではありません。キリストの体にあって一つにつながっているのだと伝えたいのであり、分かってほしいのです。だから続いて、愛という原理を提示します。愛なるキリストの一部として、私たちは同じ。構造分析が目的なのではありません。キリストの内にある者同士、同じ霊に生きると言いたいのです。
 
その限りにおいて、一人ひとりには何かが与えられています。知恵や知識、超能力的なものもありましょうか。この中にパウロは「信仰」というものを置いている点に注目しましょう。これも賜物としての力だというのです。キリストの弟子、信徒であれば「信仰」があるのは当たり前だという気がするかもしれません。でも本当にそうでしょうか。
 
私は自信がありません。またそんな私以上に、信仰がもっと強くなれば、と悩む人も教会にいるでしょう。でも、信仰が弱いと嘆く人もまた、このキリストの体にきちんと入っていると言っているのです。キリストの中に居場所があるのです。これは慰めではないでしょうか。動けなくても信仰があるし、信仰が薄くても働きがあるというのです。


Takapan
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