有限なものを超えるものは愛

チア・シード

コリント一12:31-13:13

コリント

愛の章と呼ばれる美しい文章です。多くの人の心を捉えましたし、私もここで打ちのめされてキリストに出会う者となりました。教会はキリストの体につながるものであり、愛の中にあるとパウロが語ってきた後、突然きらめくようなフレーズがここに並ぶことになります。新約聖書の中でここにだけ使われる語がいくつもあり、パウロ自身ほかでは使わない語も目立つことから、ここは何か別の言葉や言い回しが引用されているのではないか、と見る向きもあります。
 
それにしても、美しい言葉が並びます。身を犠牲にしたところで、アガペーが無ければ何の意味もない。神からの愛と分析する必然性はありません。それもあるかもしれませんが、人の中の真心を考えても差し支えはありますまい。但し、何らかの対象に触発されて生起するタイプの愛ではないでしょう。自発的で自律的なタイプの愛だと言えるでしょう。何々のために思うこと・することがこの愛ではありません。私たちを愛したキリストの故に、私たちは愛するよう備えられているのであり、愛さないではいられないと捉えたいものです。
 
見過ごされがちですが、パウロはここで、預言や異言にわざわざ触れています。コリント教会のトラブルの中で別に論じたことと関連させています。預言にしろ異言にしろ、それは有限なものに過ぎないと言っているように聞こえます。私たちが何を知ろうと、それは不完全なものでしかないのです。パウロ自身、神の奥義や意志を何でも知っているかのように語っているように見えるかもしれませんが、そうではありません。人は所詮幼子のようなもので、ぼんやりとしか真実が見えていないというのです。
 
当時の鏡は現代ほどくっきりとは見えなかったのだ、という説明がよくなされます。銅または青銅を研いたものではそんなにはっきり見えるものではない、と。しかしそんなにぼやけていたとは思えません。それなりに見えるのです。「おぼろに」などと訳すから、勝手にぼやけたイメージを読者はもってしまいます。これはギリシア語では「謎において」です。パズルが解けない状態だと言っているのです。サムソンが獅子の蜜を問うたようなものです。
 
顔と顔とを合わせて見るのは、神の顔または心でしょう。鏡に喩えて何か間接的な手段で神を知るに過ぎない今の私たちは、謎が解明されていないままであるから、いま私たちが見ているすばらしいものも、所詮部分に過ぎない、不完全なものである、と、そこに価値を置きすぎないようにしようではないか、と呼びかけているのではないでしょうか。永遠ではないのです。しかし永遠につながるものがある、とパウロは確信しています。信仰・希望・愛がそれです。
 
テサロニケ書やローマ書でも、この信仰・希望・愛の組み合わせがあることから、パウロの中にやはり強く刻みこまれていた確信だったと思われます。パウロの心にこのセットがいつもあったのでしょう。コリント教会には様々な問題があるように見え、パウロは手を焼きましたが、コリント教会に欠けていた本質が、この愛だと見抜いたのです。愛がいちばん大いなるものだというのは、コリント教会のトラブルのためにいちばん効くのが、愛の原理だと言いたかったのかもしれません。


Takapan
びっくり聖書解釈にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります