キリストの体

チア・シード

コリント一12:27-31

コリント

あなたがたはキリストの体である。この大胆な宣言も、クリスチャンをしばらくやっていると、あたりまえのように聞き過ごしてしまうかもしれません。だが考えてみればかなり不思議な表現ではあります。キリストという語は、ユダヤ人が待望していたメシアのギリシア語訳です。メシアは人間の外から来ます。ユダヤから救いが来るとも信じられていましたが、人が自ら救い主となるのではなさそうでした。そこへ、信じた自分がキリストの体である、と言われているわけです。
 
また、体とは肉体を表す語です。肉を伴うもの、つまり実体ある具体的な存在です。それなのに、キリストの体という表現をとると、それは目に見えるものを表すよりも、どこか抽象的な対象であるかのように思われます。特にプロテスタント側では、見えない教会という考え方を表に出します。カトリックだと、その名の通り普遍的なものが現にそこにあるとの見方をしているのではないでしょうか。ここは様々な理解がなされているようです。
 
一人ひとりはキリストの一部分としてそこにつながっています。もし個人が細胞だとすると、それが集まって組織となり、組織が集まって器官となります。パウロの頃にも似たような理解をしていたことが窺えます。器官が集まった生物個体を以てキリストと呼んでいるようです。器官それぞれの役割が異なります。しかし、そこに価値概念を持ち出す必要はありません。これは、分派・分裂を戒める知恵として、いまの私たちに向けられているとして受け止める必要があろうかと思います。
 
後のパウロの名による書簡ではより明確ですが、パウロの目の前にあった教会でも、かなり組織めいたものができていたことが見受けられます。ここには使徒・預言者・教師・奇跡を行う者・病気を癒す賜物をもつ者・援助者・管理者・異言を語る者などと挙げられています。パレスチナから遠いコリントの地においてもこれだけの肩書きが並んでいることには驚きを禁じ得ません。いったい、キリスト教は、どれほどのスピードを以て拡大していったのでしょう。
 
こうして役割分担が意識されていたとなると、それぞれが部分としてあるのだという考え方は、恐らく十分理解されていたはずです。だのにコリントの教会は、それぞれの立場の者が、自分たちこそ尊いと見なし合い、誇りたがっていたとパウロは理解しています。これは、必ずしも滑稽な意地の張り合い方をしていたのではなく、羽力な人物を軸に派閥ができていたのを、揶揄している可能性もあります。
 
イエスの弟子たちが、誰が一番偉いかを競っていたことが思い出されます。人間はいまもなお、同じようなことをしているとも言えます。それも、キリストの弟子と自負する者が、そう、私たちもまた、いまもなおそれをしているとは言えないでしょうか。そう思う必要があるのではないでしょうか。
 
この問題を解決するには、すべてを包み込む大きな原理が必要であるとパウロは考えています。それを次に示そう、と言うのです。こうして、いわゆる愛の章が始まります。教会と呼ばれるこの共同体は、キリストのはたらきの一つひとつを担う一人ひとりから成っています。互いの相違の底に、同じキリストの血が流れているはずです。それとも、キリストの血とは関係ないものとして教会があるのでしょうか。抽象的な「体」ではなく、あの十字架の「血」によってつながっている、と互いに結びつくことはできないのでしょうか。


Takapan
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