常識と自由

チア・シード

コリント一10:23-31   


すべてのことが許されている。文字通りにこれを受け止める必要はありません。ここでは、私が自分でよしとして行動することについて考えられています。私の自由の中で振舞うことについての問いとして、少し立ち止まってみます。私がよかれと思ってすることは、時に一定の制限を以て行動したとしても、それは不自由ではないというのです。
 
私が感謝して食事を受けているのであれば、そのこと自体が咎められることはないでしょう。神の栄光を現すようにと願いつつやることについて、恰も規則に縛られてつまらないというように見てくれるな、というのであり、何でもありで傍若無人に振舞うことこそが自由なのだ、というように傲慢に考えることから距離をとろうとするのです。
 
自分の自由な行動が、誰かをつまずかせてしまう可能性はないでしょうか。何をしても神が益にしてくださる、と無責任な言動をとることがよいのではありません。確かに、ふだんの食事で細々とした規則に苛まれる必要はありません。しかし、偶像に献げた肉については、止めるべきだ、とパウロは考えます。ある意味で8章の焼き直しです。
 
ただ、偶像に献げた肉が人を滅ぼす、という強い主張が、ここでは少し変化しているようにも見えます。私の側の態度にウェイトが移っています。他人の良心のために食べるべきではない、との言い方です。この「良心」としか日本語で訳せない言葉ですが、西洋におけるこの語のつくりは、「共に知る」であり、ギリシア語では「共に見る」です。
 
時にそれは「常識」のように理解するとよい場合もあります。世の常識の故に私の行動が制限されるとき、それは不自由だ、と嘲笑う輩がいることでしょう。しかしパウロはきっと、そこにすら真の自由があるのだ、と言いたいのではないかと私は想像します。パウロの側の「常識」ないし「良識」は、ひとを神と結びつけ、救いへと導くためのものでした。
 
ここで用いられる「自由」という言葉は、とくに奴隷からの解放を意味して用いられる語でもあるといいます。パウロは、神ならぬ世の原理の奴隷になることはよくないとしています。しかし神の奴隷、つまり僕として、人の救いの益になることなら、喜んでやりましょう、と願うのです。それがキリスト者の本当の自由であると、私は理解します。


Takapan
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